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鎌倉エフエム「タイラヨオのスマイリン・フェイセズ」放送終了のお知らせ

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 そろそろ5月も半ばなのでここでひとつお知らせを。

 2007年より毎週月曜夜7時の放送で10年間続けて参りました、鎌倉エフエム「タイラヨオのスマイリン・フェイセズ」を、来月一杯で終了致します。長い間、誠にありがとうございました。

 番組をはじめた頃は、作詞家として世に出て1年目。印税暮らしでぶらぶらしていました。何か自分にとって目新しく、楽しそうで、地元の役に立っているような気分になれる何かがやってみたかった。自分で番組の企画書を書いて局へ持ち込み採用され、当初はもっと地元との繋がりを意識した企画を考えていたのですが、毎週やり始めると結構大変で、自ら企画したような手の込んだ事は一切できなかった。にもかかわらず、毎週自分の好きな音楽、つまり世の中にはあまり広く知られていない音楽を紹介するだけでも、悪くないはずだと勝手に結論付けて続行しました。

 時が過ぎ民主党政権に入ると、番組内容がブラック・ミュージックと政治解説のセットというヘンテコなものに変わって行きました。私も若かったので、おかしな正義感を拗らせて、真実を伝えたい!などと思っていたのですが、今思えばそんなものは、なにも鎌倉エフエムのラジオから流す必要性などなかった(笑)。

 それでたった一度だけ、局から「公平にお願いします」と注意されたのですが、毎週あんなに勝手な事をしゃべっていた割りにそれがたった一度だけだったというのは、私なりに許されるぎりぎりを常に考えていたし、実際の取材や出典に基づく事だけを述べて、アジ演説になっていはならぬと言う自分ルールを徹底した結果だったろうと想像しますが、もしかしたら局の方を相当悩ませたかも知れないと思うと申し訳がありません。いずれにせよ、私なりにはルールを徹底したにも関わらず、一度注意されたというのを、今は笑わせて頂く事を許されたい。積み重ねによる印象操作が働いたのではなかろうか(笑)。

 それにしても時間に余裕があったのは番組を始めた頃だけで、その後は作詞と平行して様々な仕事をしながら生活していたので、そしていよいよそれが忙しくなってくると、毎週の収録が結構な負担になってきてしまいました。6、7年目は特に、何度も辞めてしまおうかと思いましたが、何故か10年きっちり区切りよくやって辞めようと踏みとどまり、この度いよいよその時を迎えるわけです。

やりたい事をやるだけで、特に局に貢献するでもない私に、10年間も自由にさせてくれた鎌倉エフエムには、心から感謝しています。どうもありがとうございました。

 残り7回のオンエアですが、好きな曲をかける以外に、何か特別なことをする予定は今のところありません。最後まであと少し、お付き合い頂ける方は、どうぞお楽しみ下さい。

http://www.kamakurafm.co.jp/

日本の大学について思うこと

 私は高校で進路を決めようと言う段階になってはじめて、ちょっと真面目に勉強がしてみたいと思った。しかしそれまで全くやって来なかったので、私の偏差値ではまともな大学など受けられなかった。だけど、父のオフィスにバイトで来ていた某有名大学の学生たちの馬鹿らしさを私は良く知っていたので、受けるならそれよりも更に上のちゃんとしたところじゃないとダメだと思い込んだ。今では、同じ大学でも学部によってだいぶ違うだろうとも思うが、どちらにせよ私の偏差値ではとにかく問題にさえならなかった。

 そんな時、父が留学してみたらどうだと提案してくれて、一年間のTOEFL受験専門学校を経て、コミュニティカレッジに入った。学歴としてはなんの強みにもならないものだが、卒業するためには真面目に取り組まなくてはならなかったため、自ら望んだ通り真面目に勉強する日々を過ごすことができた。とても良い経験になった。

 とは言え学生生活では勉強以外にも色々する事があり、経営学部を卒業したのにミュージシャンとして帰国した私だったが、今は作詞家としてだけでなく、自分のこのジャンル分けが困難な良く分からない道のりをそれとなく活かせる仕事ができているし、これからも続けていけそうだと考えている。

 そしてやっぱり私は日本の大学に行かなくてよかったと思っている。今朝、東京新聞に掲載されたと言う山口二郎氏の最高傑作コラムを読んでつくづくそう思った。私は大学に行きたかったのではなく、勉強がしたかっただけだった。その事を高校生の時点できちんと見定めていたことを、自分を褒めてやりたい気分だ。

 ちゃんと勉強している人もいるというのに、大学に行っているやつなんか皆バカだと言われ始める日が来るかも知れない。東京大学の女装家やその他諸々の教授たち、慶応大学のレイプや電車のホームから彼女を突き落とす事件、多摩美術大学の学園祭の出し物での疑似葬式、日本大学の出典物による火事で児童が死亡する事件、大きな話題になった事だけでもこんなにすらすらと出てくるのはどうしたことか。末期ではないだろうか。

 義家先生に、より一層本気を出してもらうしかないなと思う反面、政治に期待してどうこうできるレベルをとうに超えている気もする。これからの日本が政治や経済で勝つ事ができたとしても、人間の中身がボロボロに腐って溶けている状態ではオカルトだ。それでも日本の四季折々の風景はとても美しく、その山紫水明に似合う人々を求めているのではないだろうか。情けなさと美しさが重なって、なんだか悲しくなってくる。大学なんかやめちまえ、山登りしろ。

ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞について思うこと

 ミュージシャンで作詞家のボブ・ディランが2016年のノーベル文学賞を受賞しました。まさかの人選に驚いたのは云うまでもありませんが、歌詞がノーベル文学賞の対象として相応しいかどうかという議論が当然出てきます。私の結論を先に述べると、否です。

 歌詞というものは作曲、編曲、歌い手の全てと対になってはじめて意味を成すもので、歌詞単体ではあまり意味が無いという理由から、文学賞の対象とするべきではないと思うからです。

 ボブ・ディランの歌詞が詩的であるとして評価されていたのは大昔からの事でしたが、私はその昔から、一切同感できませんでした。アーティストとしての彼を否定する気は毛頭ありません。しかし歌詞に詩としての芸術性があるかどうかを考えると、やはり楽曲とあの声色やファッションと共に提供されるからこそ意味をなしているのであって、歌詞単体を評価すること自体がそもそも不可能とすら感じます。

 しかし基本的に英語圏の流行歌というものは、歌詞の内容が基本的に浅く、メッセージ性があると言っても非常に平面的なものが殆どです。取るに足らない、感受性や思考を働かせる辛さを伴わない話題でこそ、安心して大衆は共感し合っているかのように見えます。その主流があったからこそ、ちょっと観念的な事や人生観的なことを歌詞にしたディランが際立って見えたのではないでしょうか。

 その点、日本のJ-Popリスナーは、他の言語地域の音楽ファンに比べて、歌詞の良し悪しに重点を置く傾向は確かにありますが、それでもはやり、楽曲と歌手の存在が手伝って感動させていると考えるのが妥当でしょう。

 ある特定の楽曲が好きな理由として「歌詞が良いから」だと言ったにしても、そこには少し勘違いがあって、実はその歌詞を良い歌詞たらしめているのは、楽曲と歌手の存在が大きく、むしろ楽曲と歌手が違えば同じ歌詞でも好きにならなかった可能性も十分高いでしょう。しかしリスナーの側はそういう事をあまり気付かないし、気にする必要もありません。大いに入り込んで感動して頂きたいと、作詞家としては強く願うばかりです。

 ところで私は所詮英語と日本語しかわからないので、インドやロシアやドイツやサウジアラビアでどういう曲が流行っているのか知りませんが、日本人の歌詞への工夫や凝り方は非常にハイレベルだと感じています。それは歌詞を大切にするリスナーに育てられた部分もあると思いますが、それ以前に、日本語の汎用性の高さも大きな要因であると考えられます。

 ところが日本語の歌詞の凄さを他の言語圏の人はまず理解する事ができません。翻訳したとしても、メロディーとの合致のさせかたのセンスと言ったところまでは伝わりませんし、歌詞の中に登場する英文は、日本人独特の感覚と共に理解される必要があり、言わば、和文化英語、或いは和製英語と言う、本来の英語とは全く別の概念を要するものとも言えます。

 単純に語彙数と表現の幅を考えても、小なるものから大なるものに置き換える事は可能でも、その逆をするためには、映像や音楽といった補足が必要になるでしょう。そう思うと、日本の文學や音楽表現を、地球儀を俯瞰する規模のマーケットに乗せることが難しいのは、どうしようもない宿命と言えるのではないでしょうか。同時に、日本のアニメーションが成功している事に少し納得がいく気もします。

 話はノーベル賞に戻りますが、科学や医療といったはっきりと万人の理解に足る結果を伴うものではなく、文學や平和、或いはリアルタイムで明確な評価を定めづらい経済学といった分野で、賞を与える事自体に一体なんの意味があるのでしょうか。

 その疑問に明確な答えを出したと言えるのが、今回の文学賞だったのではないでしょうか。少なくとも文化の分野に於いては、ノーベル賞の権威は地に落ちたと言って良いと感じました。何十年も前ならまだしも、この現代に於いて、取れないからと言って残念がるような賞ではありません。

脱相対的平和主義――はじめの走り書き

それらしいタイトルを付けましたが、何か長期的な計画があるわけではありません。また、私には正直難しいことはわかりません。故に、多種多様な引用をして知識をひけらかしたり、理屈をこねくり回したりして、崇高なご高説を披露しようという気はさらさらありません。ただ純粋に人間として、或は日本人として、平和ということについてどう考えることが可能か、真面目に試みるべきだと考えています。非力な私だけでなく、願わくばあなたにもそうして欲しいと思っています。ちなみに真面目にという所が重要で、私の様なごく平凡な一個人ですらその必要性を感じてしまうほど、世間はこの問題について実に不真面目だと言わざるを得ません。

俗世間と言ったほうが似合っているかも知れませんが、この風潮は何も近年に限った事ではありません。戦後日本では平和論ブームというのがあったそうで、カントの『永久平和のために』を読み直すのが流行ったそうですが、そのブームに疑いの目を向けた福田恒存も、日清、日露を経てその見解を変化させながらも、徹底した非戦論を唱えた内村鑑三も、論壇から追いやられる中で無記名の『絶対平和論』を出版し、その思想を貫いた保田与重郎も、真面目に平和を考えた人々のことを皆、日本の社会は拒絶、無視、排除してきました。西洋の古典なら嬉々として奉る一方、同胞の苦悩には耳を傾けない態度は、不真面目かつ腰抜けで、民族として衰退するのも頷ける情けなさです。日本人はどこまで空気に弱いのでしょうか。また、勇気がない。ブームや風潮と化した後の「祭り」への乗っかりぶりとは裏腹に、平均的には独りでは何も言えない人々が大半を占めているように思われます。

そういう国民性ですから、安全の保障された、毒にも薬にもならないような話しかしません。平和に対する態度はその骨頂で、戦力を保持しないことが戦争をしない事であり平和なのだと唱え続けて飽き足りません。ブームの時に読んだであろう、本の冒頭すら忘れてしまったようです。カントが著わした『永久平和のために』(宇都宮芳明訳、岩波文庫)の第一章の第一条項で、"平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。"つまり、"それは実はたんなる休戦であり、敵対行為の延長であって、平和(原文に濁点)ではないからである。"とあります。要するに、戦争を実行していない、或は実行不可能である状態が、平和であると考える事は、18世紀に既に否定されています。

平和ってなんだ、これだ!という答えはありません。ただ、思想家でも批評家でもない、ただの活動家が述べることをそれらしく扱う習慣を、まずはどうにかするべきです。かと言って大学教授だとか学者だとか弁護士だとか、肩書きがあればそれで良いということでもありませんが、兎に角どうでもいい話に付き合っている場合ではないのです。進歩的と揶揄(ではなかったですか?)された人々の世代から離れて、もっと若い世代の中には、本物の議論がしたいし読みたいと思っている人も少なからずいると信じています。ですから、そういった方々の邪魔をしないで欲しいのです。少しは福田や保田を無下にした反省をするべきです。

愚痴はこれぐらいにして、では平和について考えて行きたいと思います。今日はまずタイトルについての説明にもなりますが、相対的平和主義とは何かお話したいと思います。戦争状態よりは、戦っていない状態がましだから平和だという考えは、「戦争」と「平和」の相対関係から成る捉え方であることは言うまでもありませんが、何かと何かを比べてより平和そうに思える方を選択するというのは、大変消極的かつ自虐的な平和主義とも言えます。争うぐらいだったら謝ろうとか、怒られるぐらいだったら嘘をつこうとか、そういった精神の延長線上にあり、平和を訴えているようでありながら実は、一寸も平和に対して真剣に考えていない態度です。自ら平和を創り出そうという気概は無く、カントに否定された平和条約や、その時々の周辺諸国の顔色や、国内世論やその延長線上にある選挙民の票田を気にしながら、当たり障りのない平和ならぬ、限りなく実現可能な「平時」を選択する態度であり、本当に平和を思考しているとは言えない考え方です。しかし現在日本で平和主義者のような顔をしている人々のほとんどがこの部類です。

周辺諸国の顔色を気にすると言うのは、協調や協力と言う意味では必要かもしれませんが、周辺に流されるだけでは心細いものです。それぞれの国家はそれぞれの国家意思を持っていて、その理想や方向性が違えば摩擦が起こるのは当然です。ではそのそれぞれの国家意思は、他者から抑圧されるべきものなのでしょうか。当然、現代社会の常識として侵略や虐殺は許されませんが、国民の安全な暮らしを守りたいとか、経済成長したいとか、科学技術の発展に寄与したいとか、そう言った意思はあっていいはずです。ちなみに、侵略を試みる国家に対して、話し合いをすれば解決できるとの主張が良くありますが、本当でしょうか。良し悪しはさておき、領土領海の拡大をしたいと言う意思を持った国家に対して、どう話し合えば諦めてくれるでしょうか。あなたがどうしもラーメンが食べたい!と思っている時に、頼むから釜飯にしてよと説得されて納得するでしょうか。馬鹿な例えだと思うかもしれませんが、話し合いで解決すると思うこと自体が馬鹿なのです。個人の意思は尊重されるべきだと良く聞きます。犯罪者の人権も守られるべきだと言う人もいます。しかしそれを国家に置き換えた時、これが如何に現実味のない綺麗事でしかないのかが良く分かるはずです。国家と個人を並べて論じるべきではないと言う批判もあるでしょうが、では国家間で共有するべき倫理や価値観は誰がどのように思考するべきでしょうか、個人ではないのでしょうか。

そして、戦争は国家の意思がはじめるものだとしても、相手国があって初めて成立します。複数の国家間の意思がぶつかり合うのです。その意思は、クラウゼヴィッツの論に習えば目的や目標を達成したい意思、名誉の回復や正義を貫きたい意思、或いは意思というより本能とも言えるやうな力の暴走を含んでいる中で、その解決に人道的な方向性を示すこと自体が現実的でないとも言われています。走り出したら止まらない。振り上げた拳を下ろすのに、良い話や説教をしても無駄なのです。そもそも、意思とは欲望であり、夢であり、人間にとって否定しがたいものです。出る釘は打たれ、金メダルを取ればルール変更されてしまう国際社会の中で、それでも夢を追いかけるためには、困難を打破し努力し続ける事が必要ですが、その意思の価値を決めるのは本人でしかありません。ルールを作る側に立ちたいと思えば覇権を目指すこととなりますが、軍事力や経済力は常に水面下での戦いがあります。一般市民には平時でも、国家運営者が休戦する事などないと言っても過言ではありません。とは言え、共存する仲間として助言をしたり促したりしながら、なるべくより多くの者が納得する社会を作り上げると言う、非常に地味で細やかな歩みが必要だと言うのが、ごく簡単に言うところの現実でしょう。

ここから先は、また別の機会とし今日はこの辺にして、また心赴くままに語ってみたいと思います。すめらみこといやさか。

価値を見る目

現在東京ステーションギャラリーで開催されている『川端康成コレクション――伝統とモダニズム』へ、先日二度目の訪問をした。時間が許せばもう一度行ってみたいくらい、私はこの展覧会がとても気に入った。見どころは何と言っても玉堂の国宝『凍雲飾雪図』なのだろうが、私の一番のお気に入りは東山魁夷の『静宵』だ。"知識も理屈もなく、私はただ見てゐる。"というキャッチコピーが物語る通り、物を見る、ということの奥深さと面白さに溢れている。それは川端康成の面白さそのものでもある。

見ること自体は、視力に問題が無ければ誰でもできる。いや、視力に問題があったとしても、春草の感性を以てすれば普通の人間よりずっと見ることができる。目に入ったものをどう捉えるか、理解するか、この事が重要なのであって、そこには本来"知識も理屈も"あってはならないのかも知れない。実際には見えるはずのない色を入れる事で、実物よりも現実的な印象を与えるような画も世の中には多々存在する。それは視覚が見たのではなく、感情や精神が見た色に違いない。

目に入るものを単純に考えると、それは空間や物質についての情報だが、画にしろ写真にしろ、まずは情報価値としてだけで考える事もできる。パリのエッフェル塔を写した画と、名も無いおじさんの家の玄関を収めた画なら、普通は前者を買って飾りたいと思うものだ。しかしおじさんの家の玄関を横山大観が描いていますとなれば話は別で、誰しもがこぞって、おじさんの家の玄関のほうを欲しがる。あのエッフェル塔を差し置いてである。つまり私たちには、情報を頼りに物の価値を決める習性がある。

川端康成の凄いところは、それをやらない点にある。いいなと思ったものが、後から国宝に指定されるのだ。「いいな」のスケールがでかすぎる。Facebookでぽちぽちと惜しみなく人にあげてしまう「いいね」のような、薄っぺらい日常に生きている私たちには到底真似のできない芸当だ。

若冲展に何時間分もの長蛇の列を作っている人々を見て、世の中のどこにこんなに美術に興味のある人が隠れていたんだろうと不思議に思ったが、聞けばNHKで連日特集をしていたそうだ。なるほど、大メディアのステマならぬ「マ」にやられたか、と思ったが、若冲に価値があることには変わりが無いのでよしとしよう。それでも、観る側の価値は如何ほどのものかと、ついつい訝しんでしまう。美術への造詣も予備知識も全く無い私の旦那さんは、若冲の描いた孔雀の羽の部分にハートマークを見つけて、300年も前に日本でハートを描いている人がいたなんて凄いと言って、逆に度肝を抜かれた。え?と聞き返すと、いや50歳の時に描いたとしても250年前だからやっぱり凄いのだと言って、持論を曲げない。それはハートではなく、孔雀の羽の模様だよと言うと、たいそう驚いた顔をしていたが、驚いたのは私だ。上手に言えないが、私はこういう人にこそ若冲に触れて欲しいと、何故か強く思う。

見ることだけでなく、聴くことでも、その価値を情報で左右される場面は多々ある。日本の音楽市場は非常に独特で、圧倒的に無いに等しい英語力が影響してか、世界的に価値があるとされているアーティストでも、日本での知名度はほとんど無い。それは価値が理解されるか否か以前の問題として、レコード会社、テレビをはじめとしたメディア各局、広告代理店、あるいはプロダクション、そういった関係図の隙間に「価値」に関する「情報」を滑り込ませる事が難しいという問題がある。若冲でさえもそうであったように、何も知らない人に価値を知ってもらうためには、それ相応の情報量がまずは必要だが、その為にテレビ番組の何分間かを割くのか、売れば直ぐに利益になるアイドルのプロモーションに使うのか、答えは簡単だ(補足:音楽の会社とテレビ局が系列である事は珍しくない)。

これはつまり情報を握るものが価値を決める世の中ということだ。そんなつまらない世の中にならないように、審美眼を養ってみたいと願う。しかし情報があっても尚、その価値が理解されないことさえあるようだ。たまたまネットで話題になっていて目にしたのだが、音楽配信サービスのお試し期間を過ぎた後、楽曲がフルで聴けなくなったことについて、苦情が出ていると言うのだ。一体何を言っているのだと思うだろうが、つまりお試し期間が終了すると、楽曲は30秒間の視聴ができる。視聴して気に入ったら購入する。その至って当たり前の行動について、不親切だというクレームが発生しているらしい。全部無料で聴きたいのだそうだ。物事の価値以前に、社会の仕組みを知らない子供の意見だろうと言われていたが、私は幼稚園生の時だって、お菓子やジュースが欲しい時はお金を払わなくちゃいけないのだと知っていた。こういう感覚の人には、価値のあるものを与える価値がそもそも無いので、一生無料で得られる範囲のものを楽しみながら生きたらいいと思う。

 "知らぬが仏"とか"無知は罪"とか、知っているのと知らないのとどちらが良いのか戸惑うような、知識や情報に関する諺も多々存在するが、一番知るべきは「価値」なのだろうと思う。希少な一流に触れることで養われるものもあるし、質より量で補われるものもあるだろう、どちらも必要かもしれない。そこに方法論や正攻法を見つけるのは難しい。有名校を卒業していても、親や親戚が超一流でも、価値に関するセンスが必ず身に着くとは言えない。その逆もあって、どんなにすさんだ青年期を過ごしていようが、至極の芸術を生み出す人もいる。また、これは芸術や文藝の分野だけに現れるものとは限らない。大きく言い切ってしまえば、生き方そのものかも知れない。例えば人間関係のふとした場面で、接している相手の価値を理解できずに失礼な事を言ってしまう事がある。お料理がちょっと趣味の私が、一流シェフに向かって、私のお気に入りの美味しいお店に連れて行きますよ~なんて言えば噴飯ものだ。そういう事を平気で言ってしまう人は案外そこら中に居る。私に「プロの作詞家になろう!」なんて題名のイベントへのお誘いメールをしてくる人がいるのは、一斉送信だろうからしょうがないにしても、私にまだまだ実績が足りないから仕方が無いにしても、心の扉をそっと閉じて、もう開く事は無いだろう。見た目がみすぼらしいからと蔑んでみたら、大企業の会長でしたなんて笑い話もどこかにあった気がする。しかし役職や地位に関わらず、真っ直ぐに価値だけで共感しあえる人同士であれば、スーさんとハマちゃんにだってなれる。

今まで何も深く考えずに生きてきた分、この先私は少しでも価値の判る人間になりたいと願う。人生の宵の口と言うにはまだ早いかも知れないが、静かにそんなことを想う。東山魁夷はたびたび「生きているのではなく、生かされている」という言葉を用いたそうだが、自然に対する目の向け方などは、自分も歳を重ねるごとに変わっている実感が多少ある。それは勿論、知識が増えたせいもあると思うが、最初は「情報」として入って来た考え方や知識に、自分の暮らしが重なり合ってゆくことで、徐々に自らの「価値を見る目」に変わって行くのではないだろうか。また自ら取り入れるばかりでなく、意図しない人との縁が導き出す視野や、人生体験の、全てがその構築に繋がっているはずだ。それは楽しい時ばかりではないかも知れない。それでも、それを「価値」に変えられるか否かは、自分次第なのだろうと思う。楽をしたいと願ったことはない。心豊かに強くありたい、私はいつもそう願っている。

 
【参考画像】東山魁夷『静宵』
写メに収めるようなものではありませんね、申し訳ない。ですが雰囲気だけでも。

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すめらぎいやさか。

 

 

シンプル不足

自宅のパソコンの前にしっかり座るのは久しぶりだ。この数ヶ月、本当に色々な事がありすぎて、安らぎやまどろみからはすっかり遠ざかっていた。昨日は数か月ぶりに旦那さんと休みの日程が合い、風が強かったけど晴天だったので少し長めの散歩をして、目に留まって気に入ったものを迷わず買い、趣味の合う店主の居る店でまだ明るいうちから飲み、夜は友人を交えてゆっくり食事をした。空が晴れているだけで、恵まれていると感じられるような一日だった。贅沢とはお金ではなく、「時間」や「空間」そして「人」なんだなあと改めて実感した。

私は物事をあまり深く考えないし、なるべく清潔な思考回路を保っていたいと思うので、心遣いはしても、余計な詮索はしない。あっさりし過ぎていると感じる人もいるかも知れない。それぐらい無駄を省いて、答えや目的への最短時間に挑戦したいと思っている。人生の時間は限られているのだから、あんまりにも悠長なことはやっていたくない。私の座右の銘は「自信があるから行動するのではなく、行動するから自信がつく」だ。これはつまり「才能があるからやるのではなく、やっていくうちに才能になる」という事と同じで、こうして字面で見るとこれ以上ないほどシンプルなロジックに思えるのに、実行するとなると中々難しいらしく、理屈をこねてやることもやらないうちから諦める人が、意外と多いように思う。そういう人は当然、いつまで経っても才能や自信に恵まれることはない。

シンプルに考え、シンプルに行動する事がどうしてそんなに難しいのだろうか。人生の過ごし方のような大きな意味ではなく、もっと身近な出来事に目を向けてみても、シンプルが不足している場面に出会う。物事の導線をしっかり捉えて、しかるべき時にしかるべき人へ要件を伝達をする事に、さほどテクニックは必要ないはずなのに、ああでもないこうでもないと、揉め事になってしまう。共通しているのは、①関わる人間が必要以上に多い、②責任の所在がはっきりしない、③コミュニケーション不足か情報過多のどちらか。この3つが揃うと必ずうまく行かない。しかもコミュニケーション不足はたいてい、メールをしたのに返事が来ない、だからきっとこういう意味かも知れない、などと勝手に想像を膨らませて、その自分が思う意味を踏まえて再びメールしたりするので、一層こじれる。電話一本すれば済む話だし、重要なメールだったら私は「さきほどメールしたので確認お願いします」と電話をする。他人がメールや電話の着信に気付くタイミングなど、謎でしかない。常識ではこうだろうと思っても、たまたま相手が常識では考えられないシチュエーションに居るかもしれない。そんな事はだーれにも分からない。わからない事をわかった気でいる事がまず大問題だ。②に関しては、日頃からルールを決めておけば良いだけなので、③に比べれば改善は楽だ。

①については、最近自分の職場で進行中の問題が頭をよぎる。ある人は、社内のあらゆる情報に常に誰でもどこからでもアクセスできて共有しておくと良いと考えている。最近のビジネスシーンでは常識かもしれないクラウドコンピューティングと言うやつでしょうか。確かに便利そうだし、かっこよさそうですが、私にはどうも面倒な気がしてならない。何が面倒かと言うとそれは、責任まで共有している気になるからだ。自分の担当の範囲に関しては自分がしっかり管理をする、他の人には触らせないし、触ってくれとも頼まない。不便な部分もあるかもしれないが、そうならないように工夫する。一方、いつでもどこでもどなたでも、と言う状況には、ある種の「甘え」が生じるのではないかと不安で仕方がない。便利と猫はいつだって、人を駄目にするのだから。なにか一つの案件に対して、知る必要のない範囲の人にまで公開する事に何か意味はあるのだろうか。全体のテーマやスキームを共有するのは当然としても、細かい部分に関しては、信頼し合って励まし合う以外に何もする事は無いように思う。とは言え、私はこの社内システムに関しては責任者ではないので、判断は任せるし、決まった通りに従うつもりだ。

 こうやって細かい話を書いている事自体がシンプル不足に思えてきた。楽曲と世界観に向き合って、言葉を捻り出すだけのシンプルな仕事、作詞に戻ろう。では。すめらぎいやさか。

 

やるのやらないのじゃないの

 「やるか、やらないか、そればっかりですね。」ーー午前中にラジオで流していた国会中継で、総理が呆れたように言いました。話題は議員定数削減を過去の審議で議論された通りにやるのかどうかといったような事でしたが、しかし恐らく総理が論点としたいのはそこではなく如何に適切に行うかということであって、それで冒頭のような発言があったわけですが、こういった事はよく起こることで、過去の事実を取り上げて、それを今も認めるのかどうか、同じ見解なのかどうかといったような質問をします。ところがその過去から現在では状況も変わっていたり内閣そのものが違ったりしていて、また本来議論されるべき論点から見て全くどうでも良い事だったりする場合、こうして質問をする代議士の目的と言うのは、相手を不誠実で過去の約束を守らない嘘つきのように言いたいだけなのです。国家国民にとって重要な課題をネタにしてただ人の悪口を言っていれば地元で褒めてもらえるのだろかと考えるとうんざりしてしまいます。ちなみに日割りの単純計算で安く見積もっても国会審議に掛かる血税は1分当たり約20万円らしいです。

 人はどうしても物事に白黒はっきり付けたがるものなのでしょうか。国会中継では「はっきり仰ってください!」などと怒鳴る声をよく聞きますが、物事はそんなに単純なものではないし、また単純なだけであってはならないはずです。最近の世界の主要な関心事のひとつとして数えられる難民の問題にしても日本国内では、受け入れるのか否か、と言ったことばかり語られているように思います。受け入れ賛成派の言うことは決まって人道主義的であってリスク面を考慮していないから平和ボケと揶揄される。一方、反対派は難民が実際に各地で起こした集団犯罪やテロを鑑みて、安全保障上の理由から断固として拒否を訴えますが、賛成派からは差別だと罵られる。つまりこのどちらもが「やるか、やらないか」で議論しているのがわかりますが、この議論に着地点が無いことは皆さんお察しの通りで、なんの結論も理念も目標も掲げないまま空論と化し、忘れられるのを待つばかりです。

 ところが忘れたくとも難民は存在し続けるものだとすると、この問題に一体どういった解決策が考えられるのか、考えてみるぐらいはしてみたいものです。例えば、そもそも難民そのものの増加を防いだり減少をさせる事はできないのでしょうか。現に安倍政権が行うシリア・イラク難民への経済支援では、8億ドルがどう使われてどういった成果が得られるのか、熱い関心と共に語られる場面にはほとんど出会いません。むしろ金銭的支援だけをして実際の受け入れをしないことが恰も非人道的であるかのような論調さえありますが、「受け入れるか否か」以外の選択肢を認めたがらない風潮は一体なんなのでしょうか。そもそもシリアからやってくる難民が日本で快適に過ごせるでしょうか。いくら日本が良い国だからって、シリア人はシリアに居たいに決まっています。難民にとって一番の幸せは、受け入れられる事ではなく、祖国に帰ることなのですから。そう考えると、難民の受け入れを強く求めるような人々というのは、親切で国際貢献意識の高い系な日本像を勝手に理想として掲げているだけで、シリア情勢や難民問題の本質などには一切興味が無いのだという事がよくわかります。

 難民を受け入れることも受け入れを拒否することもなくなる唯一の方法は、難民が存在しない世の中を作る事です。しかし難民が生まれる原因である内戦が石油に纏わる国家間の覇権争いによるものである以上、民間人の私達の努力で直ぐさまどうこうなる問題ではありませんが、例えば石油に変わる再生可能エネルギーや物質の開発ができたら、世の中の秩序に変化が生まれないとは限りません。資源の常識が変われば更に、広大な領土を有する事で多種多様な民族や思想を一国の中に持つ事はもはやリスクとしか考えられず、分裂を起こすなんて事もあるかも知れません。分裂して独立すれば独自通貨を持つかEUのような通貨統合で凌ぐ事になるのでしょうが、円の信頼性はますます強まって、小さな島国だと学校で教わったはずの日本が経済だけでなく制空海権や資源で突如巨大国家扱いされるかも知れませんよ。

 冗談はほどほどにするとしても、やるのやらないのと言った入り口でずっと無意味な議論をするのはまっぴらなので、こうやって現実逃避でもしてみたくなったのです。世の中の役に立たなかったら国際貢献とは呼べないのは当然としても、何が本当に世の中の役に立つのか考える事すらしないままに国際貢献セヨと単純に求めるのはやめて頂きたいですね。それは例えば、女性が輝く社会を!と言いながら、何を以ってして輝きと成すかがまずわからないという問題にも言える事なのですが、れはまたいつかの機会に…それでは、また。すめらぎいやさか。