ざっくばらんな悠長日記

 昼下がりに喫茶店で読書でもしようと思ってカウンター席に座ると、間も無くして独りの小母様が私の二つ隣の席に座った。カウンターの向こうには白いシャツに黒いベストで凛々しい姿の従業員が二人居て、彼らに向かって「一日で二回来るなんて珍しいでしょう?」と切り出したかと思うと小一時間ノンストップで喋り続けたので、本を読みたかった私はよっぽど途中で別の席に移動しようかと思ったが、小さな店内でどこに座ろうと大差無いだろうし、感じが悪いように思われるかも知れないと思って我慢したが、小母様の声が私の耳にぐいぐい押し込まれて来るのをどうすることもできず、聴きたくもないが聴くことになった。

 まずは天気の話だ。今日は朝から暖かかった。最高気温は十四度。明日は十度まで下がるとの事だ。そして明日は成人の日だ。去年の成人式では雪が降っていたのに今年はとっても降る気配はない。それにしても最近の新成人はみんな借り物の着物で成人式を済ませるが、昔は足袋から草履から全部揃えていたので大変お金が掛かったものだが、普段和服を着る事も無いのだから時代は変わったものだ、私だってお母さんから譲って貰ったり買って貰ったりして何十着も持っているが着やしない、と言う。そこで従業員が「ご自分で着付けされるんですか?」と質問したが、できないのだそうだ。ちなみに着物を数える時は「着」ではなくて「枚」で言うものだし、着付けなんて覚えるのにそう大変なものでもない上に身近にお母さんと言う恰好の先生が居たのに勿体ない事をしておいて、現代っこの借り物晴れ着に文句を言えた立場なのか甚だ疑問だ。いや、文句では無いのだろう。五、六十万掛かったわと三回ほど口にしていたので、それを自慢したかったのに違いない。しかしこう言っては何だが晴れ着の相場としては安いではないか、良い買い物をしましたね。さて、この後は天気の話が再び挿まれて、従業員の年齢の話と歳の割に若く見えてイケメンだわよという話、近所の大型スーパーが今日は混んでいると言う話、その一連が何度かループする。確かにこの喫茶店の従業員は不思議とみんなイケメンなような気もする。

 話を聴きながら私の手元の本が五十頁ほど進んだ頃、小母様は帰って行った。待ちわびた静寂に満足しながら珈琲を頼み直して更に十頁くらい読み進めると、今度はお婆さんとお爺さん四、五人の団体がやって来た。カウンターから少し離れたテーブル席に座ったので、今度は安全だ。どんな話をしているかも気にせずにしばらく読書していたら、その団体の会話から「ひみこさん、ひみこさん、」と言うのが聞こえて来た。珍しい名前である。しかも私には日美子ちゃんという妹のように可愛らしい友人がいる。それで一気に私の耳はその団体の会話に奪われてしまった。意識し始めてみると大きな喋り声だし、狭い空間で聞き耳を立てるまでもなく聞けば、その方達は年齢七十三歳から七十五歳で、その内の一人のお父様は魚雷を作っていたのでC級戦犯にされて巣鴨プリズンに入れられていたと言う。すると別の方が、それって巣鴨のどこにあったんだい?と聞くので、その年代で知らないものかと驚いたが、知らなかったのは質問した爺さんだけだったようで、皆にサンシャインの所だよ!と教えてもらっていた。そこからは戦争体験談義である。俺は防空壕の中で生まれたんだという人が居たかと思えば、おっ俺だって経験しているよ!と我も我もと言い始めて、終戦が七十年前で開戦が七十五年前だと分かって聞いているとなんだかおかしな部分もあったが、最も共感し合って盛り上がっていたのがGHQの話であったのは成程と思った。しかしまあ、喫茶店でお茶を飲みながらわいわい喋る話題としてはどうだろうかと言う違和感を感じつつも、彼らの語りっぷりからは何一つ悲惨な空気を感じなかった。あっけらかんとしているし、面白がっていると言うか懐かしんでいると言うか、いたって普通なのだ。まるで私たちが、修学旅行は京都だった?奈良だった?え!北海道?いいなあ~!と言うようなノリで戦後の占領期間の話をしていた。

 大東亜戦争の話となると、日本国にとっては唯一で絶大な敗戦経験であるからして、そう易々と語ってはならんといった風潮があるような気がしていた。実際に以前、東京大空襲を経験した祖母を持つ知人と、具体的なきっかけはもう忘れてしまったが飲みの席で口論になって(確か戦争を知ったような口を聞くなといった具合で叱られた記憶があるものの、その人自身も体験はしておらず、祖母から伝え聞いた話が自分の体験程の価値を持っていたのだろうと思う)、それっきり疎遠になってしまった事があった。だが考えてみればこれは実際の体験をしていない者同士のできごとで、体験していないからこそ近親者から話を聞いたり本で勉強したり映画でおぼろげに触れてみたりもするが、そうしている内に余計な付加価値やブランドイメージのようなものを作り上げてしまっているのではないだろうか。他方、今日出会った実際の体験者達にとって戦争は、歴史的な意味云々の以前に、過去の個人的日常の中にあったできごとなのだ。別に後世に伝え残すべきと言ったような使命感も無ければ、戦争を良く知らない世代に不満を持っている様子も無かった。ただただ、それは思い出話以外の何物でも無かった。

 喫茶店で私が読んでいたのは河上徹太郎の『有愁日記』で、その第一から三章に掛けてはポール・ヴァレリーが多く引用されている。その中でこんな言葉が紹介されている。

「歴史」は知性の化學が作製したもつとも危險な産物である。その特質は十分知られてゐる。この産物は夢想させる。民衆たちを醉はせ、彼らに贋の追憶を生みつけ、彼らの反射作用を過大にし、彼らの古傷を維持し、休息中の彼らに苦患を味ははせ、彼等を繁榮强大の妄執かあるひは迫害の妄執に導き、諸國民を手嚴しい、驕慢な、我慢のならぬ、虚榮心の強いものにする。(「歴史について」一九二七年)

 私が実際に読んでいたのはもう少し先の章だったが、はっとして第一章に戻って読み返してしまった。自国の歴史について全く知らないのも興味を持たないのも如何なものかと思うが、知りすぎておかしな事になっている人々も、そう考えてみれば多々見受けられる事に気付く。代表的なのは八月十五日に軍服を着て靖国神社へ詣でるような様で、それが東京ビックサイトだったら何とも思わないが、一体どういう心算なのか私には到底判断がつかない。つい先日は慰安婦問題についての日韓合意で、安倍総理英霊の名誉を汚したとして抗議を受けているようだが、「歴史」と現実で現在進行形の「政治」を並べて議論するのは些か乱暴に思える。何故なら「歴史」は過去の事実の羅列ではあるものの、ヴァレリーが言う通り追憶的な部分も当然含むし、現代から見た時に多くの人が納得の行く形に整えられたもので(納得の色合いの違いに於いては論争が起こるが)、もしそれを認めないと言うのならば「歴史」が存在する意義はなく、ただ「記録」だけがあれば良いと言う事になる。しかし人が気にしているのはいつだって「歴史」であって「記録」ではない。それを踏まえれば、「政治」はどちらかと言えば「記録」或は「速記」に近い。今行われている政治がどういった歴史を紡ぎ出すのかは、その直中に居たのでは中々視えるものではないし、総理大臣は歴史家なのではなく政治家なのであって、歴史を糺す仕事までも彼に押し付けざるを得ないとしたら、それは学者の怠慢か民間人の我儘ではないだろうか。国益を損なったと言って怒っている人も居るが、どうも国益と個人的な理想や願望をすり替えているのではないかと感じる。何を以てして国益と呼ぶのかも問題で、しかも名誉と言うのは日本国民の側からみた観念であって、国際政治の場でそれを主張及び固持する術としてどう言った道があったのか示された場面を見た事がない。更に言えば、それをやり続けて嫌われたのが正に韓国であるし、また現実的な国益に観点を置くのであれば、最大の外交カードを失った挙句国内問題を膨張させる事となった韓国のほうが相当の損害を受けたという見方もできるはずだ。

 何はともあれ考える事もしないままに、あらゆる勘違いと共に平気で生きているのが人間なんだなあと思った。時代が変わったから日常着で和服を着る人が居ないというのは勘違いで、実は二つ隣の席に座っているし、私は歴史だと思っていたものが、同世代と共感しあえる昔ばなしや武勇伝である人達もいる。過去というものは一体どこから歴史へと姿を変えるのだろう。会社の歴史を設立から現代まで振り返るなどと言う時は、数年か十年数年と言う場合でも、それはその会社の従業員や創業者にとっては歴史と呼べるものであって、遠く感じられる過去になった時それは歴史と呼ばれ始めるし、いくら遠くてもまだそれが昨日の事のように鮮やかだったり、見る人自身の精神や肉体がその当時とあまり変わらぬ様子だったら、それほど歴史な感じがしないのかも知れない。今日はこんなに長く綴る心算は無かったのに、昨日の予告通りしっかり余計な事を考えてしまった。読書に戻りたいので、すめらぎいやさか。

価値そのものの価値を考える

 遅ればせながらあけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。日本政策研究センターが発行する情報オピニオン誌『明日への選択』平成28年1月号に初めて寄稿をさせて頂きましたのでご報告申し上げます。年頭の話題としては大変光栄なことで、同誌は日本の政治政策や文化における様々な課題を知り考える上での大変重要な情報源として私自身以前より拝読させて頂いており、俗世的な部分の全く無い生真面目な媒体ですので、そのような場に私の名前が掲載されるとは大変有り難いことなのです。しかし初寄稿で欲張りすぎた感があったので、これから改善して行きたいと思います。

 今月の同紙でもそうですが、近年大きな話題として取り上げられているテロの問題は、大統領選を控えたアメリカでは選挙のトピックとしても派手に扱われていますね。正義感たっぷりにテロの脅威に屈せず戦おうと宣言するところまでは良しとしても、これがイスラム教徒への不当なバッシングへ繋がっている事も忘れてはなりませんし、「テロ」と呼ばれるものがいつだってイスラム教徒によるものでなければならないのか、ふと疑問に感じる時があります。昨年11月にコロラド州で起きた銃撃事件は過激派のキリスト教徒がその宗教的信条に則って行動したものでした。更に遡って6月にサウスカロライナ州で起きた黒人教会銃撃事件は、人種「差別」どころではない「侮辱」による「主義」が成したものです。

 テロの定義条件の中には「無差別」である事が含まれており、その点コロラド州サウスカロライナ州のような事例の場合、標的を信条や肌の色の違いで以て定めている点から、テロとは呼べないと言うのだろうか?とも考えられますが、テロを定義する上でもう一つ重要な要素として、政治または宗教的な意図があるかどうかというのがあり、こちらは十分満たしています。こうなるともう定義の重要性など如何ほどかと言う気になって来るもので、不特定多数の地域住民が脅威に感じたら、その時点で立派なテラーのテロリストと言えはしないでしょうか。ところが、アメリカ人は自国民をテロリストと呼ぶことはしないのです。

 人は恐怖心に煽られるほどある一点だけを見つめて信じる事で精神的自己防衛を図るものと思われます。今の一部のアメリカ国民は過激な宣伝戦に飲みこまれ、とにかくテロリストはいつもイスラム教徒なのだと思い込む事で安堵感を得ているようにさえ見えますが、善悪の物差しを宗教に置いてしまったら一番困るのは、アメリカのような多民族国家である事に何故気付けないのでしょうか。今日のイスラム教徒が、明日は我が身と思わないのでしょうか。私は昔10代の頃は、キリスト教と言うとひとつなんだと思っていました。言ってもせいぜい浄土真宗と日蓮宗みたいにいくつか宗派がある程度だろうと思っていたので、実際にアメリカへ行って電話帳を開いて見てびっくりしたわけです。キリスト教だけでもたーくさんの宗派がある上に、別の宗教もある。本場のゴスペルを聴いてみたくて電話帳を手にしましたが、諦めてのんびり散歩しながら探したものです。

 少し話が逸れましたが、異宗教をどう捉えるかと言うのは移民の問題にも関わって来ます。アメリカのような移民そのものがルーツである国とは違い、日本では否定的な意見が圧倒的に多く、確かに日本人の思う「常識」が通じない多数の人々が突然押しかけて来たらと考えると冗談じゃないと言いたくなる気持ちはわかりますが、問題は民族の違いではなく、現代の私達が満足するレベルのモラルを保持する術があるのかどうかと言う点であって、制度や条件でもしそれをクリアできるのであれば考える余地はあると思うのですが、移民政策=売国と言う図式に嵌められて議論が前に進む様子はあまり伺えません。ちなみに日本国内で移民に対して好意的な意見も散見されることはされるのですが、その論調たるや生易しく現実味の無い平等と平和への憧れに留まって、これでは移民が嫌われる手伝いをしていると言われても仕方がないほど中身がありません。テロリストとも話し合いで平和的解決をするべきだなどと言う一定層と同じ分類の人々が堂々と全国紙で述べていたりするわけですが、そういった上っ面だけの作文には飽き飽きしているのでもう勘弁して欲しいです。

 上っ面のレベルに違いはあれど、先進国の中でこの問題に無関係でいられる国は無いでしょう。昨年長谷川豊氏がアメリカ人の性根についてリアルな所感をブログに書いていらっしゃいましたが(私の戦争観 : 長谷川豊 公式ブログ 『本気論 本音論』)、地球上で白人が最も優れていると真顔で言い続ける人々は今までもこれからも居なくなる事は無いでしょう。他の人種にしろ教徒にしろ、何かを信じて疑わない人々を交えてどう世界秩序を保つのか、18世紀に戻って呪い合い殺し合うのか、国連は無用の長物と言い放ったアンドレ・マルローは何を見ていたのか、そろそろ本気で考えなければカオスの中でただ訳も分からず朽ち果てて行くのではないかと心配です。

 つまり民族と宗教と政治の問題に今まで通りの建前が通じない限界が来ていて、その限界を知りながら何もしないのか、思い切ってトライするのか、選ばなければならないと感じるのです。民族とか宗教と言うと自分が関わっていると思えない人も居るかもしれませんが、エネルギー問題でも大気汚染でも、将又同性婚夫婦別姓でも、突き詰めれば全ての根底に民族と宗教と政治があるのですから、何に於いても近代社会の価値そのものの価値が試されているのであって、その答えを捻り出すための思考が必要とされているにも拘わらず、世界各国どこでだって人は皆自分の暮らしに忙しく、投票日が迫れば雑多な情報の洗い直しに勤しんで、100年の計など何処吹く風で、また明日も満員電車に揺られるのです。明日は日曜日ですが。

 幸い私は人よりも余計な事を考える余裕が少しあるように思います。今すぐに何がどうなると言う話でないにせよ、考えたい事や考えなくてはいけないなと思うことを良く考えられる人生を送ってみたいと言う抱負を新年のご挨拶に代えさせて頂き、本日はこの辺で失礼致します。すめらぎいやさか。

 【お知らせ】
アンドレ・マルローの名前が出て来たのはこういうわけです。
ルーツについて、想いを巡らせてみませんか。
是非ゆっくりとご覧ください。

チャンネル桜
小川榮太郎『美の世界・国のかたち』
ゲストは竹本忠雄先生です。
私はちょこんと横に居るだけのアシスタントですが…


【美の世界・国のかたち】竹本忠雄、日本とフランス「ルーツとルーツ」の対話[桜H28/1/8]

 

良いお年を。

 本日はおおつごもり。平成27年が静かに終わるかと思いきや最後に一悶着ありましたね。日韓合意について夫々の観点から様々な言葉が飛び交う中で、複雑である事が大前提の外交問題においてこれがどういった意味を持つのか、その意味さえもが複雑であるのだから、時期早々に何か断言してしまうのは気が引ける思いでいましたが、ひとつだけ確かに言い続けられる事としては、何のために何をしているのか見失ってはいけないという事です。そんな根源的で広義的な綺麗事を言うなんて下らないと思うかもしれませんが、実際に見失われている様を私は多々目にしました。これは日韓合意についてに限らずあらゆる場面で感じられる事で、例えば安全保障について話すのであれば、安全保障に纏わる現実問題の中でのみ話を進めるべきところを、性善説や精神論や民族性と言った話を織り交ぜるばかりか、議論の手前でレッテル貼り合って罵り合ってすっかり消耗してしまうので、真面ではとても取り合う気になれないのです。つまり包み隠さず言えば、中韓であれ反安倍であれ何かを敵視してバッシングする事で一体何を成し遂げたいのかという事を問うた時、それが自己満足以上の何があるのかと言う事です。

 私は日韓合意のこのような形は悲しい結果であると思います。本来であれば、もっと建設的に歴史を前に進めるような議論のできる隣国であって欲しいと思います。ところがそれがそうで無いとなった時に、同じように罵り合うのではなく、友人を見捨ててでもしかるべき道を進み導くべく茨の道を行く事をどうして抗えましょう。日本という国に生まれた人間として、恨みではなく祝いを出発点とするべきであって、何が悔しいかとか、何を言ってもらわねば満足がいかないとか、そんな事を価値観の中心に置くべきなのでしょうか、私には違和感しかありません。

 年明け以降ゆっくりと順を追って述べていきたいと思いますが、本年中に上手に纏められそうにないので、引き続き強かに学んで行きたいと思います。本年もあと30分を切りましたので、このへんで終わりにしたいと思います。すめらぎいやさか。

お仕事のご報告をまとめてします

今年中のリリースについてまとめてお知らせさせて頂きます。

 

【11月11日】

ToLOVEるダークネス2nd キャラクターソング

ララ・サタリン・デビルーク(CV.戸松遥)&結城美柑(CV.花澤香菜)『マルサンカクカゾク』

 

【11月18日】

KinKi Kids「もう一度信じて」(シングル『夢を見れば傷つくこともある』初回限定版B収録)

 

【11月25日】

ToLOVEるダークネス2nd キャラクターソング

モモ・ベリア・デビルーク(CV.豊崎愛生)&ナナ・アスタ・デビルーク(CV.伊藤かな恵)『恋のため息』

ラミーラビリンス「Don't Look Back」(カードファイト!!ヴァンガードGギアークライシス編EDテーマ)

 

【12月9日】

ToLOVEるダークネス2nd キャラクターソング

金色の闇(CV.福圓美里)&黒咲芽亜(CV.井口裕香)『ヘーキじゃないかも』

 

【12月16日】

INFINITE 「Bad -Japanese Version-」(アルバム『For You』収録)

 

【12月23日】

ToLOVEるダークネス2nd キャラクターソング

古手川唯(CV.名塚佳織)&西連寺春菜(CV.矢作紗友里)『キミとスクール☆デイズ』

 

【2015年冬発売】

花咲くまにまにキャラクターソング『鏡歌水月

 谷和助(CV:鈴村健一)「風となり雨となり」

 倉間楓(CV:浪川大輔)「初楓」

 谷和助(CV:鈴村健一)、倉間楓(CV:浪川大輔
<台詞参加>白玖(CV:櫻井孝宏)「恋ノ花」

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こんな具合でこの2か月で8タイトル合計10曲がリリースになります。まあ、大半を占めているのはToLOVEるダークネスですが…。そして現在は年明けリリースの作詞作業を進めています。11月18日発売のKinKi Kidsは私を除く作家陣全員が超豪華です。12月16日のINFINITEは松尾潔さんや河村隆一LUNA SEA)さんの書き下ろしも収録されるとの事です。アニメやゲームの楽曲は、作品を知っている方が納得するのはもちろんの事、知らない方が聴いても共感できる楽しめるものをとの想いで書きました。ぜひ皆様に、CDをお手に取ってじっくり聴いて頂けたら嬉しいです。どうぞよろしくお願い致します。今日はご報告のみ。すめらぎいやさか。

 

 

私の食わず嫌い

旦那がとんねるずの食わず嫌い王を好んで頻繁に見ているのですが、私には嫌いな食べ物が無いので一生この番組には出られなくて残念だが何かひとつ大嫌いと言う事にして渾身の演技をして実際のところは大好きな四品をばくばく食べると言うのも悪くないなあなどと企んでいますが、番組に呼ばれる可能性は無いのですからただの空想です。

そんな私にも実は食わず嫌いがあった、と言うのが今回の主題です。それは食べ物ではなく、ハムレットです。ロースハム入りオムレットではなく、ハムレットです。シェイクスピアと言うとまず私には先入観があった。わたくしは芸術的な感性が豊かであるがゆえに大衆の俗物では心を満たすことのできない悲しくも美しい存在なのですと言いたいのは本人ばかりで傍から見ればどうも胡散臭いような連中が新宿三丁目のどん底あたりに入り浸って語らい合うもののように思っていたんですね。これはイメージであって、どなたか具体的にそういう人が居たと言う訳ではないのですが、とにかく私はそんな風に思い込んでいた。演劇界隈に左翼が多いのも影響していたかも知れない。自分の趣味に合わない人々が好んで愛でるものだから、興味を抱かなかったのです。

ところがこの度諸事情により読まなくてはならなくなった。仕事となれば私心を迷わず捨てられる私は、先入観を葬り去ってただ普通に読んでみたのです。するとどうでしょう、面白くて面白くて一気に読んでしまった。ちなみに私が読んだのは萬斎ハムレット用に書き下ろされた河合祥一郎訳のもので、言葉の運びと遊びがとても心地よく読みやすかったのも、はじめて読むハムレットとして適していたのかも知れない。これから福田恒存訳も読んでみようと思っていますが、取り寄せている間に小林秀雄の『おふえりあ遺文』も読みたいし、太宰治の『新ハムレット』は一番後回しになるだろうが余裕があれば読みたいところなので青空文庫でダウンロードしたばかりだ。青空文庫は凄い。まさかと思いつつ検索するとあるのだから凄い。怖い。そうなると読むしかない。がしかし、本文冒頭にある通りハムレットの登場人物と設定を拝借した創作であるわけだから、まずは既に手元にある福田恒存の『人間・その劇的なるもの』でも読んでおこうと思う。

さておき何がそんなに面白かったのかと言う話ですが、人間の内面のありとあらゆる部分を登場人物それぞれの台詞や行動が語ってしかも答えが出ない。これを読んでいる私は現実に存在する人間でありながらも内に秘めた心や心理の動く範囲については、自分を含めた誰にも明確に指し示すことはできず、それは私個人に限らず人間全体に言えることなのだから、どこまでも抽象的なはずなのに確かに存在すると言う点では現実的なんだという、当たり前すぎる事実に対して、まあ人間なんてそんなものだよ。人間だもの。と言って納得するのかというと、ハムレットはとてもじゃないけど納得しないわけです。私も納得できないような気がしてきた。しかしその納得できないということ、そうやって苦しんだり悩んだりすることさえも、人間として当たり前だという堂々巡り。人間!その劇的なるもの!と言いたくなるのも当然の物語なのですね。

某通販サイトの某著書に対してのレビューで私は、小説や文学を読むというのはつまり人間を考え抜く力であって、それがいかに重要だったかを気付かされて感動したといったような事を書いた。相手がハムレットとなると大物過ぎるので本腰を入れてやるわけにも行かないが、私はもう少しこの物語の中に居る人物それぞれについて良く考えてみたいと思った。私が学生の時に専攻していたのは経営学だったのですが、これはつまるところ人間を考える事に繋がる。だから面白かった。哲学に手を出す気にはなれなかった私が少しそんな気分に浸るには丁度良かったんですね。だけど結局私も人間を考えるのが好きなようで、結局作詞家なんていう仕事をしているし、これはきっと私に合っている事なのだと思うから、これからもっと楽しんでやって行きたいと思う。単純そうに見える事ほど難しく、難しい事ほど面白いのは世の常ですが、毎日がつまらないと思うとしたら、つまらないのはその毎日をつまらないと捉えている自分のほうであるのに、悩む事だけは忘れない。だけど悩み方がつまらないから、おもしろい答えに向かう事ができない。そうやってずっと足踏みしているような人をたまに見かけますが、もう少し素直に物事をわからないでみたらいいんじゃないかと思う。わかったら面白くないですから。

わかって面白いのは、嫌いだと思っていたものが好きだったと分かった時ぐらいかもしれませんが、その先にまたわからない面白さがあるからこそ好きだと思えるのだし、結局のところわからないまんまですね。あはは。ではすめらぎいやさか。

求めるは、より大胆な謙虚さか

大変ながらくご無沙汰しておりました。

実はここのところお蔭さまで本業の作詞がとても忙しく、情報解禁までまだしばし間がありますが、近々立て続けにお知らせする事となる予定です。他方、報道に乗る平和安全法制まわりの話題の質の悪さと、8月14日に発表された安倍談話の素晴らしさで、心は引いたり満ちたりの波乱であります。

平和安全法制に関する議論が深まらない最たる理由は、実際の内容を把握しないままに印象と空想だけで考えようとしたり発信したりしているからに他なりません。安倍談話についても、私はニコニコ生放送で会見を観ていましたが、TBSでは「植民地支配」「侵略」「お詫び」「反省」と文言を掲げた表に〇とか△を付けて、談話に盛り込まれたかどうかを視聴者に見せながらの中継をしていたようで、いかにも不真面目な態度だと感じます。

法案の趣旨にせよ談話の内容にせよ批判一辺倒の人々と言うのは、文章に向き合う事を忘れすぎです。これは今に始まった事ではなく、例えば8月15日が来れば多々取り上げられる場面のある昭和天皇による終戦の詔書にしても、「耐え難きを耐え忍び難きを忍び」というワンフレーズ以外に暗唱できる部分のある人がどれ程要るでしょうか。かく言う私もさすがに暗唱はできませんので、復習の意味を込めて昨年の8月15日にはこのブログで原文全文を掲載しましたが、“他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス”などと言った部分は現代に於いても、今一度よく噛みしめて世界へ発信し続けるべき重要な天皇陛下の、つまり日本国の、姿勢であるはずです。

しかし振り返る事をしないのであれば、新たな話題として取り上げていく他ない。そういう意味でも、今回の安倍談話には大変大きな意味があったと思います。歴史に謙虚でなければならない、謙虚な姿勢が重要だと、総理は繰り返し述べられました。記者との質疑応答も含めると7回も登場する「謙虚」という言葉は、今もっとも私達日本人に必要とされていることなのかも知れません。総理は談話発表の記者会見の中で、政治的、外交的意図によって歴史が歪められるような事は決してあってはならないと強調しましたが、この意図と言うものはつまり、謙虚さとは無縁の私利私欲による希望的解釈を押し通す事であり、歴史は政治家ではなく学者や研究者の手に委ねられるべきだと言う事でしょう。とは言え、学者が政治と密接に繋がっている状況ではなかなか難しいのかもしれませんから、そう言った柵を含めた上での戦後レジームというものから脱却をする覚悟が、総理大臣だけでなく今まさに現場に携わっている人間や未来の日本を作り上げて行く次世代の人々に必要とされているのだと痛感させられました。

そうです、謙虚である事には勇気も要るのです。自分に都合が良くて楽なほうに物事を解釈できるならば、ついそうしてしまうのが人間と言うものですが、謙虚を貫こうと思えばそれは許されません。たった一人勇気を持って謙虚を貫いたとしても、それが不都合であると感じる人々から非難されるかもしれませんし、少数派である事が理由で社会的信頼を得ることが困難になる事だってあるでしょう。そういったリスクを背負ってでも謙虚でいられるかどうか、つまり何かを成し遂げようと挑戦できるかどうかは、疑うのか信じるのか、そのどちらを取るのかに掛かっています。何事にもリスクは付き物で、それが全く存在しないならば成長や発展を産む事はないでしょう。かと言ってハイリスクに対してローリターンに終わる事だってあるはずですが、ではそのリターンはどの時点のどの地点から見てのリターンかというのもまた問題ですし、このリターンそのものさえも、疑いの視点から見るのか、信じる視点から見るのかで大きく違ってきます。文化や価値観の違う国際社会の中では数多くの疑いの視点がどうしても必要になって来ます。それでも、一点の最も大きな信じる視点がしっかりと軸になっていれば、必ず多くの疑いに右往左往させられる事のない、大きな成果へ繋がるのではないでしょうか。私は、そうあって欲しいと願うばかりです。

 

最近、仕事の関係で高杉晋作からの吉田松陰に改めてハマったりしたので、彼の名言なぞ紹介して終わりたいと思います。

 

成功するせぬは、もとより問うところではない。

それによって世から謗されようと褒められようと、

自分に関することではない。

自分は志を持つ。

志士の尊ぶところは何であろう。

心を高く清らかにそびえさせて、自ら成すことではないか。

 

ちょっと格好良すぎるかも知れませんが、憧れるくらい自由ではありませんか。私も心を高く清らかにそびえさせたいと思います。すめらぎいやさか。

勘違いも恋の内、じゃないよねやっぱり

時が過ぎても味わいを増すような言葉というのは稀で、だいたいは生もの同様、旬が過ぎた後に旬の頃の旨さを語られても理解できないし賞味期限が切れれば不味い。新聞テレビ週刊誌などのメディアが良くやる事として、政治家や著名人の言葉の切れ端をピックアップして肥大させて批判を煽り、元となった発言内容とは全く違う意味合いを付け加えた上で勝手な世界観を作って強引に謝罪に追い込むと言うのがありますが、発言した本人はだいたいそういう意味で言ったのではありませんと反論をしますよね。その反論は当然であるものの、何か意味を成したことがあったろうかと考えると、あまり思い当たりません。悲しい事ではありますが、大きな声で強い印象を勝ち取った方に軍配が上がってしまうのが現実です。この際、正しいか正しくないかは勝因に寄与しません。世間も実はそこまで興味ありません。面白い方、インパクトの強い方、煽られる方へ、深く考える事もなくほいほい付いて行くものなのです。馬鹿にしたいのではなく、社会とはそういうものなのですから仕方がないのです。なんせ彼らには悪気が無いのです。

私の場合だと集団的自衛権憲法改正の事だったら日頃から散々考えている事なので、テレビでコメンテーターが適当な事を言っているとおいおいおいおい!と心の中で拒否権を発動できますが、全く予備知識の無い殺人事件や事故の報道についてだったら、その真相を知りもしないでコメンテーターの言葉にうなずく時だってあります。元から何か心に持っている話題でない、空白の状態でテレビを見ていると、テレビの中の人たちが言っている言葉を自分の言葉と勘違いをして無意識に納得してしまうんですよね。世の中の物事全てに対して持論を述べる事のできる人など居ないはずですから、自分の考えだと思っているソレは実はどこかから勝手に埋め込まれた考えでしかないのです。

安保法制や憲法の話題となると中々一夜漬けでは全貌を理解することができませんので、専門家らしき人の意見をまず聞いてそこから議論を簡単に済ませようという事になるわけですが、そもそもその専門家らしき人として紹介されている人が全然専門家じゃなかったりする事に気付けない人が圧倒的に多く、もう何を信じていいのか分からない、誰の言っている事も信用できない、とにかく政府が悪い、全部安倍のせい!のようなジェットコースターに乗ってしまう人も少なからずいるわけですね。考える事が面倒だしめんどくさがっている自分を肯定するのが許せないので素っ頓狂なオチを付けて仮初の安心感と共に生きながらえるばかりなのですが、その結論に本心から安心してはいけない事ぐらい本人も分かっていて、それでも分かっている事を分かりたくないので叫び続けて聞こえないフリをする、ぐらいまで行くと重症です。最近は若者にそういう人が多いらしいですね。大学生とか。

となると思い出すのは安保闘争のあった時代の事ですが、法案の内容をきちんと読んで理解した上で闘争に加わっていた人なんてろくに居なかったという西部邁先生の証言はあまりにも有名ですね。結局のところファッションでしかないのです。平和も戦争反対も反原発もチャラっと胸元に飾るアイテムであって、政権与党を巨大な悪者に見立ててそれに立ち向かう自分達が素敵でしかたがないという心情は分からないでもありません。顔も名前も出してしまっているような学生は卒業しても西早稲田あたりの身内に面倒を見てもらえる算段がついているでしょうから、就職の心配をする必要も無いですしやりたい放題で構わないと言う感じになっちゃうのでしょうね。ミニ菅直人がいっぱいいると言う事です。

まあそれも人生ですから好きにすればいいと思いますが、そうやって何かと闘い続ける自分の輝きを大切にしつつ、できれば国益は損なって欲しくないなあと願います。デモとかチラシ配りは肉体的に疲れますから本を読んで勉強したりする時間はあまり無いかもしれませんけどね。ちなみに私が嫌だと思うバンドマンの典型は、打ち上げで飲むばっかりが生き甲斐らしく技術も精神も全く向上の兆しが無いというタイプなのですが、肉体的に疲れると何か努力したと勘違いしてしまうんでしょうね。本当は頭を使ってもぐったり疲れるし腹もぐーぐー鳴るのですけどね。

今日はそんな感じで、すめらぎいやさか。