やるのやらないのじゃないの

 「やるか、やらないか、そればっかりですね。」ーー午前中にラジオで流していた国会中継で、総理が呆れたように言いました。話題は議員定数削減を過去の審議で議論された通りにやるのかどうかといったような事でしたが、しかし恐らく総理が論点としたいのはそこではなく如何に適切に行うかということであって、それで冒頭のような発言があったわけですが、こういった事はよく起こることで、過去の事実を取り上げて、それを今も認めるのかどうか、同じ見解なのかどうかといったような質問をします。ところがその過去から現在では状況も変わっていたり内閣そのものが違ったりしていて、また本来議論されるべき論点から見て全くどうでも良い事だったりする場合、こうして質問をする代議士の目的と言うのは、相手を不誠実で過去の約束を守らない嘘つきのように言いたいだけなのです。国家国民にとって重要な課題をネタにしてただ人の悪口を言っていれば地元で褒めてもらえるのだろかと考えるとうんざりしてしまいます。ちなみに日割りの単純計算で安く見積もっても国会審議に掛かる血税は1分当たり約20万円らしいです。

 人はどうしても物事に白黒はっきり付けたがるものなのでしょうか。国会中継では「はっきり仰ってください!」などと怒鳴る声をよく聞きますが、物事はそんなに単純なものではないし、また単純なだけであってはならないはずです。最近の世界の主要な関心事のひとつとして数えられる難民の問題にしても日本国内では、受け入れるのか否か、と言ったことばかり語られているように思います。受け入れ賛成派の言うことは決まって人道主義的であってリスク面を考慮していないから平和ボケと揶揄される。一方、反対派は難民が実際に各地で起こした集団犯罪やテロを鑑みて、安全保障上の理由から断固として拒否を訴えますが、賛成派からは差別だと罵られる。つまりこのどちらもが「やるか、やらないか」で議論しているのがわかりますが、この議論に着地点が無いことは皆さんお察しの通りで、なんの結論も理念も目標も掲げないまま空論と化し、忘れられるのを待つばかりです。

 ところが忘れたくとも難民は存在し続けるものだとすると、この問題に一体どういった解決策が考えられるのか、考えてみるぐらいはしてみたいものです。例えば、そもそも難民そのものの増加を防いだり減少をさせる事はできないのでしょうか。現に安倍政権が行うシリア・イラク難民への経済支援では、8億ドルがどう使われてどういった成果が得られるのか、熱い関心と共に語られる場面にはほとんど出会いません。むしろ金銭的支援だけをして実際の受け入れをしないことが恰も非人道的であるかのような論調さえありますが、「受け入れるか否か」以外の選択肢を認めたがらない風潮は一体なんなのでしょうか。そもそもシリアからやってくる難民が日本で快適に過ごせるでしょうか。いくら日本が良い国だからって、シリア人はシリアに居たいに決まっています。難民にとって一番の幸せは、受け入れられる事ではなく、祖国に帰ることなのですから。そう考えると、難民の受け入れを強く求めるような人々というのは、親切で国際貢献意識の高い系な日本像を勝手に理想として掲げているだけで、シリア情勢や難民問題の本質などには一切興味が無いのだという事がよくわかります。

 難民を受け入れることも受け入れを拒否することもなくなる唯一の方法は、難民が存在しない世の中を作る事です。しかし難民が生まれる原因である内戦が石油に纏わる国家間の覇権争いによるものである以上、民間人の私達の努力で直ぐさまどうこうなる問題ではありませんが、例えば石油に変わる再生可能エネルギーや物質の開発ができたら、世の中の秩序に変化が生まれないとは限りません。資源の常識が変われば更に、広大な領土を有する事で多種多様な民族や思想を一国の中に持つ事はもはやリスクとしか考えられず、分裂を起こすなんて事もあるかも知れません。分裂して独立すれば独自通貨を持つかEUのような通貨統合で凌ぐ事になるのでしょうが、円の信頼性はますます強まって、小さな島国だと学校で教わったはずの日本が経済だけでなく制空海権や資源で突如巨大国家扱いされるかも知れませんよ。

 冗談はほどほどにするとしても、やるのやらないのと言った入り口でずっと無意味な議論をするのはまっぴらなので、こうやって現実逃避でもしてみたくなったのです。世の中の役に立たなかったら国際貢献とは呼べないのは当然としても、何が本当に世の中の役に立つのか考える事すらしないままに国際貢献セヨと単純に求めるのはやめて頂きたいですね。それは例えば、女性が輝く社会を!と言いながら、何を以ってして輝きと成すかがまずわからないという問題にも言える事なのですが、れはまたいつかの機会に…それでは、また。すめらぎいやさか。

ああでもないこうでもない

 自信に満ち溢れた人が多くて大変宜しいと言いたいところなのですが、はっきり言ってよろしくない。自分の考え「だけ」が正しいと信じている人というのは、その「考え」が成長する機会を放棄しているわけですから、そのまま固まって化石のようになって、周りにとっては鑑賞する以外に何の目的をも果たし得ない物体と化してしまいます。物体となってしまったらもう会話もできませんからね。それなのに誰も拾ってもくれないし、捨ててもくれない。厄介なものです。

 だからと言って自信が無さ過ぎるのもいけないんですよねえ。自信のありすぎる人がだいたい物事をあんまり考えないのに対し、自信が無さ過ぎる人と言うのは割かし良く考えるのですが、考える焦点に無駄が多い。考えても仕方がないことを考えすぎて、当然答えが出ないから、そこで自分は答えの出せない駄目な人間なのかなあ、どうなのかなあ、とまた考えて…以下省略です。この繰り返し。そのくせ考えるべき事はあまり考えていなかったりもするので困ります。

 そういう時に役立つのが小林秀雄の『考えるヒント』でしょうか。いえ、この本を読めばすっきり平和解決すると言う事ではありません、考える事の価値とは一体なにか、少し雰囲気だけでも知りたいと思った時に読むと言いますか、まさか誰しもが小林秀雄のように考えられるわけではありませんから、せめてその香りぐらいは知りたいと言う希望を叶えてくれると言う意味です。

 私には最近憧れの暮らしと言うものがあって、それはトイレが二つも三つもあって地下にはプライベートなバースペースがあって、サウンドシステムの整った部屋で映画鑑賞もできるし、ビリヤード台もジャグジーもあります、と言ったようなものではなくて、江戸時代みたいな質素な食生活で毎日規則正しく暮らしてみたいというものなんです。年明け以降、勤務地の近所に朝から昼過ぎまでだけ営業している十八穀米のおにぎりを売っている店を見つけて良く食しているのですが、もとから雑穀の好きな私には楽しいし体調にも良いし、正月太りが解消されてきたような気がしないでもないし、何と言ってもプチプチと噛みしめながらゆっくりと食べるのがとても美味しい。デカ盛りのお店情報にわくわくしていた頃の事はもう忘れて、一切無駄のない、だけどしっかり栄養のある最低限の食事を、健気に毎日こつこつ続ける自分が気に入っているのです。

 そう、無駄が無いとは美しいのです。しかし美しさを考える時に頻繁に邪魔をするのが豊かさで、無駄が多いのを豊かさと勘違いしてしまう事が多々あります。例えば江戸時代の日本人の食生活が今よりも選択肢にあふれていたはずは無いのに、体力は圧倒的に現代人の方が衰えているのだそうです。考えてもみれば確かに、飛脚や駕籠舁なんて相当な体力が要りそうですし、走ったり担いだりしないにしても、地方から江戸まで、はたまたお伊勢様まで、何日も歩いて旅をしていたわけですから、今ならちょっとしたニュースかドキュメンタリー番組もできるようなレベルの事を普通にやっていたわけですよね。

 話を少し戻しますが、私の憧れの暮らしが豊かな暮らしではなく質素な暮らしであるというのは、豊かさに無駄ばかり感じるからです。映画も音楽もゲームも楽しいですし、私だってたまには遊びますが、モノに溢れて豊かなはずの現代社会で何か後世まで受け継がれそうな芸術とか文學が生まれたでしょうか、即答で否です。などと言いながらパソコンに向かってキーボードを叩いてるのですから笑い者ですが、要するに豊かになったせいで失ったものの方が遥かに多いのではないかと感じますし、そんな事は何も私が言うまでもなく、今まで数え切れないほど言われてきたにも関わらず、全く省みられるこのとないまま今日までを過ごしている。社会生活の次元を過去に戻すのがどうしても難しいとしても、せめて何かできる事は無いのでしょうか。例えば毎日の食生活はどうでしょうか。選択肢を減らせば少しは実現可能ではないだろうか。

 私は日頃の食生活の中で、できる限り自分が納得できるものを食べたいと言う気持ちがあるのですが、それは何も週刊金曜日編集の『買ってはいけない』を読み込んだからとかではなく、食べ物とは自分の血となり肉となる、つまり自分になるものだという感覚があって、だから値段じゃあないにせよあんまりにも安物ばかりじゃ嫌ですし、なるべく質の良いものを食べたいと思うのです。それは同時に無駄なものは食べたくないという事でもあって、自分の心が本当に必要なものを得たいと願えば自ずから食生活もそのようになって、憧れの暮らし像が出来上がって来た今日この頃なのです。ちなみにSNSサイトで食事の写真ばかり投稿してる人は、精神的に不安定なのだそうです。ちゃんと食事をしている自分を記録に残して確認する事で、自分が充実した生活をしてる真っ当な人間であると暗示に掛ける、でないと不安になってしまう、そういう心理の表れなのだそうで、食は身体だけでなく精神にも多大な影響を与えるものなのでしょう。私は良く鰻の写真を投稿してしまいますが、それはただの趣味です。

 考えなさすぎるのも考えすぎるのも考えものだという話題から、無駄が多いのは美しくないという話に変わってしまいましたが、考えるということにはどうしたって多少無駄は付き物です。無駄を経てこそ辿り着く考えもきっとあるでしょう。だんだん上手に考えて、そのうち美しく考える人になれるよう、日々ほどほどに考えながら過ごしたいですね。すめらぎいやさか。

ざっくばらんな悠長日記

 昼下がりに喫茶店で読書でもしようと思ってカウンター席に座ると、間も無くして独りの小母様が私の二つ隣の席に座った。カウンターの向こうには白いシャツに黒いベストで凛々しい姿の従業員が二人居て、彼らに向かって「一日で二回来るなんて珍しいでしょう?」と切り出したかと思うと小一時間ノンストップで喋り続けたので、本を読みたかった私はよっぽど途中で別の席に移動しようかと思ったが、小さな店内でどこに座ろうと大差無いだろうし、感じが悪いように思われるかも知れないと思って我慢したが、小母様の声が私の耳にぐいぐい押し込まれて来るのをどうすることもできず、聴きたくもないが聴くことになった。

 まずは天気の話だ。今日は朝から暖かかった。最高気温は十四度。明日は十度まで下がるとの事だ。そして明日は成人の日だ。去年の成人式では雪が降っていたのに今年はとっても降る気配はない。それにしても最近の新成人はみんな借り物の着物で成人式を済ませるが、昔は足袋から草履から全部揃えていたので大変お金が掛かったものだが、普段和服を着る事も無いのだから時代は変わったものだ、私だってお母さんから譲って貰ったり買って貰ったりして何十着も持っているが着やしない、と言う。そこで従業員が「ご自分で着付けされるんですか?」と質問したが、できないのだそうだ。ちなみに着物を数える時は「着」ではなくて「枚」で言うものだし、着付けなんて覚えるのにそう大変なものでもない上に身近にお母さんと言う恰好の先生が居たのに勿体ない事をしておいて、現代っこの借り物晴れ着に文句を言えた立場なのか甚だ疑問だ。いや、文句では無いのだろう。五、六十万掛かったわと三回ほど口にしていたので、それを自慢したかったのに違いない。しかしこう言っては何だが晴れ着の相場としては安いではないか、良い買い物をしましたね。さて、この後は天気の話が再び挿まれて、従業員の年齢の話と歳の割に若く見えてイケメンだわよという話、近所の大型スーパーが今日は混んでいると言う話、その一連が何度かループする。確かにこの喫茶店の従業員は不思議とみんなイケメンなような気もする。

 話を聴きながら私の手元の本が五十頁ほど進んだ頃、小母様は帰って行った。待ちわびた静寂に満足しながら珈琲を頼み直して更に十頁くらい読み進めると、今度はお婆さんとお爺さん四、五人の団体がやって来た。カウンターから少し離れたテーブル席に座ったので、今度は安全だ。どんな話をしているかも気にせずにしばらく読書していたら、その団体の会話から「ひみこさん、ひみこさん、」と言うのが聞こえて来た。珍しい名前である。しかも私には日美子ちゃんという妹のように可愛らしい友人がいる。それで一気に私の耳はその団体の会話に奪われてしまった。意識し始めてみると大きな喋り声だし、狭い空間で聞き耳を立てるまでもなく聞けば、その方達は年齢七十三歳から七十五歳で、その内の一人のお父様は魚雷を作っていたのでC級戦犯にされて巣鴨プリズンに入れられていたと言う。すると別の方が、それって巣鴨のどこにあったんだい?と聞くので、その年代で知らないものかと驚いたが、知らなかったのは質問した爺さんだけだったようで、皆にサンシャインの所だよ!と教えてもらっていた。そこからは戦争体験談義である。俺は防空壕の中で生まれたんだという人が居たかと思えば、おっ俺だって経験しているよ!と我も我もと言い始めて、終戦が七十年前で開戦が七十五年前だと分かって聞いているとなんだかおかしな部分もあったが、最も共感し合って盛り上がっていたのがGHQの話であったのは成程と思った。しかしまあ、喫茶店でお茶を飲みながらわいわい喋る話題としてはどうだろうかと言う違和感を感じつつも、彼らの語りっぷりからは何一つ悲惨な空気を感じなかった。あっけらかんとしているし、面白がっていると言うか懐かしんでいると言うか、いたって普通なのだ。まるで私たちが、修学旅行は京都だった?奈良だった?え!北海道?いいなあ~!と言うようなノリで戦後の占領期間の話をしていた。

 大東亜戦争の話となると、日本国にとっては唯一で絶大な敗戦経験であるからして、そう易々と語ってはならんといった風潮があるような気がしていた。実際に以前、東京大空襲を経験した祖母を持つ知人と、具体的なきっかけはもう忘れてしまったが飲みの席で口論になって(確か戦争を知ったような口を聞くなといった具合で叱られた記憶があるものの、その人自身も体験はしておらず、祖母から伝え聞いた話が自分の体験程の価値を持っていたのだろうと思う)、それっきり疎遠になってしまった事があった。だが考えてみればこれは実際の体験をしていない者同士のできごとで、体験していないからこそ近親者から話を聞いたり本で勉強したり映画でおぼろげに触れてみたりもするが、そうしている内に余計な付加価値やブランドイメージのようなものを作り上げてしまっているのではないだろうか。他方、今日出会った実際の体験者達にとって戦争は、歴史的な意味云々の以前に、過去の個人的日常の中にあったできごとなのだ。別に後世に伝え残すべきと言ったような使命感も無ければ、戦争を良く知らない世代に不満を持っている様子も無かった。ただただ、それは思い出話以外の何物でも無かった。

 喫茶店で私が読んでいたのは河上徹太郎の『有愁日記』で、その第一から三章に掛けてはポール・ヴァレリーが多く引用されている。その中でこんな言葉が紹介されている。

「歴史」は知性の化學が作製したもつとも危險な産物である。その特質は十分知られてゐる。この産物は夢想させる。民衆たちを醉はせ、彼らに贋の追憶を生みつけ、彼らの反射作用を過大にし、彼らの古傷を維持し、休息中の彼らに苦患を味ははせ、彼等を繁榮强大の妄執かあるひは迫害の妄執に導き、諸國民を手嚴しい、驕慢な、我慢のならぬ、虚榮心の強いものにする。(「歴史について」一九二七年)

 私が実際に読んでいたのはもう少し先の章だったが、はっとして第一章に戻って読み返してしまった。自国の歴史について全く知らないのも興味を持たないのも如何なものかと思うが、知りすぎておかしな事になっている人々も、そう考えてみれば多々見受けられる事に気付く。代表的なのは八月十五日に軍服を着て靖国神社へ詣でるような様で、それが東京ビックサイトだったら何とも思わないが、一体どういう心算なのか私には到底判断がつかない。つい先日は慰安婦問題についての日韓合意で、安倍総理英霊の名誉を汚したとして抗議を受けているようだが、「歴史」と現実で現在進行形の「政治」を並べて議論するのは些か乱暴に思える。何故なら「歴史」は過去の事実の羅列ではあるものの、ヴァレリーが言う通り追憶的な部分も当然含むし、現代から見た時に多くの人が納得の行く形に整えられたもので(納得の色合いの違いに於いては論争が起こるが)、もしそれを認めないと言うのならば「歴史」が存在する意義はなく、ただ「記録」だけがあれば良いと言う事になる。しかし人が気にしているのはいつだって「歴史」であって「記録」ではない。それを踏まえれば、「政治」はどちらかと言えば「記録」或は「速記」に近い。今行われている政治がどういった歴史を紡ぎ出すのかは、その直中に居たのでは中々視えるものではないし、総理大臣は歴史家なのではなく政治家なのであって、歴史を糺す仕事までも彼に押し付けざるを得ないとしたら、それは学者の怠慢か民間人の我儘ではないだろうか。国益を損なったと言って怒っている人も居るが、どうも国益と個人的な理想や願望をすり替えているのではないかと感じる。何を以てして国益と呼ぶのかも問題で、しかも名誉と言うのは日本国民の側からみた観念であって、国際政治の場でそれを主張及び固持する術としてどう言った道があったのか示された場面を見た事がない。更に言えば、それをやり続けて嫌われたのが正に韓国であるし、また現実的な国益に観点を置くのであれば、最大の外交カードを失った挙句国内問題を膨張させる事となった韓国のほうが相当の損害を受けたという見方もできるはずだ。

 何はともあれ考える事もしないままに、あらゆる勘違いと共に平気で生きているのが人間なんだなあと思った。時代が変わったから日常着で和服を着る人が居ないというのは勘違いで、実は二つ隣の席に座っているし、私は歴史だと思っていたものが、同世代と共感しあえる昔ばなしや武勇伝である人達もいる。過去というものは一体どこから歴史へと姿を変えるのだろう。会社の歴史を設立から現代まで振り返るなどと言う時は、数年か十年数年と言う場合でも、それはその会社の従業員や創業者にとっては歴史と呼べるものであって、遠く感じられる過去になった時それは歴史と呼ばれ始めるし、いくら遠くてもまだそれが昨日の事のように鮮やかだったり、見る人自身の精神や肉体がその当時とあまり変わらぬ様子だったら、それほど歴史な感じがしないのかも知れない。今日はこんなに長く綴る心算は無かったのに、昨日の予告通りしっかり余計な事を考えてしまった。読書に戻りたいので、すめらぎいやさか。

価値そのものの価値を考える

 遅ればせながらあけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。日本政策研究センターが発行する情報オピニオン誌『明日への選択』平成28年1月号に初めて寄稿をさせて頂きましたのでご報告申し上げます。年頭の話題としては大変光栄なことで、同誌は日本の政治政策や文化における様々な課題を知り考える上での大変重要な情報源として私自身以前より拝読させて頂いており、俗世的な部分の全く無い生真面目な媒体ですので、そのような場に私の名前が掲載されるとは大変有り難いことなのです。しかし初寄稿で欲張りすぎた感があったので、これから改善して行きたいと思います。

 今月の同紙でもそうですが、近年大きな話題として取り上げられているテロの問題は、大統領選を控えたアメリカでは選挙のトピックとしても派手に扱われていますね。正義感たっぷりにテロの脅威に屈せず戦おうと宣言するところまでは良しとしても、これがイスラム教徒への不当なバッシングへ繋がっている事も忘れてはなりませんし、「テロ」と呼ばれるものがいつだってイスラム教徒によるものでなければならないのか、ふと疑問に感じる時があります。昨年11月にコロラド州で起きた銃撃事件は過激派のキリスト教徒がその宗教的信条に則って行動したものでした。更に遡って6月にサウスカロライナ州で起きた黒人教会銃撃事件は、人種「差別」どころではない「侮辱」による「主義」が成したものです。

 テロの定義条件の中には「無差別」である事が含まれており、その点コロラド州サウスカロライナ州のような事例の場合、標的を信条や肌の色の違いで以て定めている点から、テロとは呼べないと言うのだろうか?とも考えられますが、テロを定義する上でもう一つ重要な要素として、政治または宗教的な意図があるかどうかというのがあり、こちらは十分満たしています。こうなるともう定義の重要性など如何ほどかと言う気になって来るもので、不特定多数の地域住民が脅威に感じたら、その時点で立派なテラーのテロリストと言えはしないでしょうか。ところが、アメリカ人は自国民をテロリストと呼ぶことはしないのです。

 人は恐怖心に煽られるほどある一点だけを見つめて信じる事で精神的自己防衛を図るものと思われます。今の一部のアメリカ国民は過激な宣伝戦に飲みこまれ、とにかくテロリストはいつもイスラム教徒なのだと思い込む事で安堵感を得ているようにさえ見えますが、善悪の物差しを宗教に置いてしまったら一番困るのは、アメリカのような多民族国家である事に何故気付けないのでしょうか。今日のイスラム教徒が、明日は我が身と思わないのでしょうか。私は昔10代の頃は、キリスト教と言うとひとつなんだと思っていました。言ってもせいぜい浄土真宗と日蓮宗みたいにいくつか宗派がある程度だろうと思っていたので、実際にアメリカへ行って電話帳を開いて見てびっくりしたわけです。キリスト教だけでもたーくさんの宗派がある上に、別の宗教もある。本場のゴスペルを聴いてみたくて電話帳を手にしましたが、諦めてのんびり散歩しながら探したものです。

 少し話が逸れましたが、異宗教をどう捉えるかと言うのは移民の問題にも関わって来ます。アメリカのような移民そのものがルーツである国とは違い、日本では否定的な意見が圧倒的に多く、確かに日本人の思う「常識」が通じない多数の人々が突然押しかけて来たらと考えると冗談じゃないと言いたくなる気持ちはわかりますが、問題は民族の違いではなく、現代の私達が満足するレベルのモラルを保持する術があるのかどうかと言う点であって、制度や条件でもしそれをクリアできるのであれば考える余地はあると思うのですが、移民政策=売国と言う図式に嵌められて議論が前に進む様子はあまり伺えません。ちなみに日本国内で移民に対して好意的な意見も散見されることはされるのですが、その論調たるや生易しく現実味の無い平等と平和への憧れに留まって、これでは移民が嫌われる手伝いをしていると言われても仕方がないほど中身がありません。テロリストとも話し合いで平和的解決をするべきだなどと言う一定層と同じ分類の人々が堂々と全国紙で述べていたりするわけですが、そういった上っ面だけの作文には飽き飽きしているのでもう勘弁して欲しいです。

 上っ面のレベルに違いはあれど、先進国の中でこの問題に無関係でいられる国は無いでしょう。昨年長谷川豊氏がアメリカ人の性根についてリアルな所感をブログに書いていらっしゃいましたが(私の戦争観 : 長谷川豊 公式ブログ 『本気論 本音論』)、地球上で白人が最も優れていると真顔で言い続ける人々は今までもこれからも居なくなる事は無いでしょう。他の人種にしろ教徒にしろ、何かを信じて疑わない人々を交えてどう世界秩序を保つのか、18世紀に戻って呪い合い殺し合うのか、国連は無用の長物と言い放ったアンドレ・マルローは何を見ていたのか、そろそろ本気で考えなければカオスの中でただ訳も分からず朽ち果てて行くのではないかと心配です。

 つまり民族と宗教と政治の問題に今まで通りの建前が通じない限界が来ていて、その限界を知りながら何もしないのか、思い切ってトライするのか、選ばなければならないと感じるのです。民族とか宗教と言うと自分が関わっていると思えない人も居るかもしれませんが、エネルギー問題でも大気汚染でも、将又同性婚夫婦別姓でも、突き詰めれば全ての根底に民族と宗教と政治があるのですから、何に於いても近代社会の価値そのものの価値が試されているのであって、その答えを捻り出すための思考が必要とされているにも拘わらず、世界各国どこでだって人は皆自分の暮らしに忙しく、投票日が迫れば雑多な情報の洗い直しに勤しんで、100年の計など何処吹く風で、また明日も満員電車に揺られるのです。明日は日曜日ですが。

 幸い私は人よりも余計な事を考える余裕が少しあるように思います。今すぐに何がどうなると言う話でないにせよ、考えたい事や考えなくてはいけないなと思うことを良く考えられる人生を送ってみたいと言う抱負を新年のご挨拶に代えさせて頂き、本日はこの辺で失礼致します。すめらぎいやさか。

 【お知らせ】
アンドレ・マルローの名前が出て来たのはこういうわけです。
ルーツについて、想いを巡らせてみませんか。
是非ゆっくりとご覧ください。

チャンネル桜
小川榮太郎『美の世界・国のかたち』
ゲストは竹本忠雄先生です。
私はちょこんと横に居るだけのアシスタントですが…


【美の世界・国のかたち】竹本忠雄、日本とフランス「ルーツとルーツ」の対話[桜H28/1/8]

 

良いお年を。

 本日はおおつごもり。平成27年が静かに終わるかと思いきや最後に一悶着ありましたね。日韓合意について夫々の観点から様々な言葉が飛び交う中で、複雑である事が大前提の外交問題においてこれがどういった意味を持つのか、その意味さえもが複雑であるのだから、時期早々に何か断言してしまうのは気が引ける思いでいましたが、ひとつだけ確かに言い続けられる事としては、何のために何をしているのか見失ってはいけないという事です。そんな根源的で広義的な綺麗事を言うなんて下らないと思うかもしれませんが、実際に見失われている様を私は多々目にしました。これは日韓合意についてに限らずあらゆる場面で感じられる事で、例えば安全保障について話すのであれば、安全保障に纏わる現実問題の中でのみ話を進めるべきところを、性善説や精神論や民族性と言った話を織り交ぜるばかりか、議論の手前でレッテル貼り合って罵り合ってすっかり消耗してしまうので、真面ではとても取り合う気になれないのです。つまり包み隠さず言えば、中韓であれ反安倍であれ何かを敵視してバッシングする事で一体何を成し遂げたいのかという事を問うた時、それが自己満足以上の何があるのかと言う事です。

 私は日韓合意のこのような形は悲しい結果であると思います。本来であれば、もっと建設的に歴史を前に進めるような議論のできる隣国であって欲しいと思います。ところがそれがそうで無いとなった時に、同じように罵り合うのではなく、友人を見捨ててでもしかるべき道を進み導くべく茨の道を行く事をどうして抗えましょう。日本という国に生まれた人間として、恨みではなく祝いを出発点とするべきであって、何が悔しいかとか、何を言ってもらわねば満足がいかないとか、そんな事を価値観の中心に置くべきなのでしょうか、私には違和感しかありません。

 年明け以降ゆっくりと順を追って述べていきたいと思いますが、本年中に上手に纏められそうにないので、引き続き強かに学んで行きたいと思います。本年もあと30分を切りましたので、このへんで終わりにしたいと思います。すめらぎいやさか。

お仕事のご報告をまとめてします

今年中のリリースについてまとめてお知らせさせて頂きます。

 

【11月11日】

ToLOVEるダークネス2nd キャラクターソング

ララ・サタリン・デビルーク(CV.戸松遥)&結城美柑(CV.花澤香菜)『マルサンカクカゾク』

 

【11月18日】

KinKi Kids「もう一度信じて」(シングル『夢を見れば傷つくこともある』初回限定版B収録)

 

【11月25日】

ToLOVEるダークネス2nd キャラクターソング

モモ・ベリア・デビルーク(CV.豊崎愛生)&ナナ・アスタ・デビルーク(CV.伊藤かな恵)『恋のため息』

ラミーラビリンス「Don't Look Back」(カードファイト!!ヴァンガードGギアークライシス編EDテーマ)

 

【12月9日】

ToLOVEるダークネス2nd キャラクターソング

金色の闇(CV.福圓美里)&黒咲芽亜(CV.井口裕香)『ヘーキじゃないかも』

 

【12月16日】

INFINITE 「Bad -Japanese Version-」(アルバム『For You』収録)

 

【12月23日】

ToLOVEるダークネス2nd キャラクターソング

古手川唯(CV.名塚佳織)&西連寺春菜(CV.矢作紗友里)『キミとスクール☆デイズ』

 

【2015年冬発売】

花咲くまにまにキャラクターソング『鏡歌水月

 谷和助(CV:鈴村健一)「風となり雨となり」

 倉間楓(CV:浪川大輔)「初楓」

 谷和助(CV:鈴村健一)、倉間楓(CV:浪川大輔
<台詞参加>白玖(CV:櫻井孝宏)「恋ノ花」

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こんな具合でこの2か月で8タイトル合計10曲がリリースになります。まあ、大半を占めているのはToLOVEるダークネスですが…。そして現在は年明けリリースの作詞作業を進めています。11月18日発売のKinKi Kidsは私を除く作家陣全員が超豪華です。12月16日のINFINITEは松尾潔さんや河村隆一LUNA SEA)さんの書き下ろしも収録されるとの事です。アニメやゲームの楽曲は、作品を知っている方が納得するのはもちろんの事、知らない方が聴いても共感できる楽しめるものをとの想いで書きました。ぜひ皆様に、CDをお手に取ってじっくり聴いて頂けたら嬉しいです。どうぞよろしくお願い致します。今日はご報告のみ。すめらぎいやさか。

 

 

私の食わず嫌い

旦那がとんねるずの食わず嫌い王を好んで頻繁に見ているのですが、私には嫌いな食べ物が無いので一生この番組には出られなくて残念だが何かひとつ大嫌いと言う事にして渾身の演技をして実際のところは大好きな四品をばくばく食べると言うのも悪くないなあなどと企んでいますが、番組に呼ばれる可能性は無いのですからただの空想です。

そんな私にも実は食わず嫌いがあった、と言うのが今回の主題です。それは食べ物ではなく、ハムレットです。ロースハム入りオムレットではなく、ハムレットです。シェイクスピアと言うとまず私には先入観があった。わたくしは芸術的な感性が豊かであるがゆえに大衆の俗物では心を満たすことのできない悲しくも美しい存在なのですと言いたいのは本人ばかりで傍から見ればどうも胡散臭いような連中が新宿三丁目のどん底あたりに入り浸って語らい合うもののように思っていたんですね。これはイメージであって、どなたか具体的にそういう人が居たと言う訳ではないのですが、とにかく私はそんな風に思い込んでいた。演劇界隈に左翼が多いのも影響していたかも知れない。自分の趣味に合わない人々が好んで愛でるものだから、興味を抱かなかったのです。

ところがこの度諸事情により読まなくてはならなくなった。仕事となれば私心を迷わず捨てられる私は、先入観を葬り去ってただ普通に読んでみたのです。するとどうでしょう、面白くて面白くて一気に読んでしまった。ちなみに私が読んだのは萬斎ハムレット用に書き下ろされた河合祥一郎訳のもので、言葉の運びと遊びがとても心地よく読みやすかったのも、はじめて読むハムレットとして適していたのかも知れない。これから福田恒存訳も読んでみようと思っていますが、取り寄せている間に小林秀雄の『おふえりあ遺文』も読みたいし、太宰治の『新ハムレット』は一番後回しになるだろうが余裕があれば読みたいところなので青空文庫でダウンロードしたばかりだ。青空文庫は凄い。まさかと思いつつ検索するとあるのだから凄い。怖い。そうなると読むしかない。がしかし、本文冒頭にある通りハムレットの登場人物と設定を拝借した創作であるわけだから、まずは既に手元にある福田恒存の『人間・その劇的なるもの』でも読んでおこうと思う。

さておき何がそんなに面白かったのかと言う話ですが、人間の内面のありとあらゆる部分を登場人物それぞれの台詞や行動が語ってしかも答えが出ない。これを読んでいる私は現実に存在する人間でありながらも内に秘めた心や心理の動く範囲については、自分を含めた誰にも明確に指し示すことはできず、それは私個人に限らず人間全体に言えることなのだから、どこまでも抽象的なはずなのに確かに存在すると言う点では現実的なんだという、当たり前すぎる事実に対して、まあ人間なんてそんなものだよ。人間だもの。と言って納得するのかというと、ハムレットはとてもじゃないけど納得しないわけです。私も納得できないような気がしてきた。しかしその納得できないということ、そうやって苦しんだり悩んだりすることさえも、人間として当たり前だという堂々巡り。人間!その劇的なるもの!と言いたくなるのも当然の物語なのですね。

某通販サイトの某著書に対してのレビューで私は、小説や文学を読むというのはつまり人間を考え抜く力であって、それがいかに重要だったかを気付かされて感動したといったような事を書いた。相手がハムレットとなると大物過ぎるので本腰を入れてやるわけにも行かないが、私はもう少しこの物語の中に居る人物それぞれについて良く考えてみたいと思った。私が学生の時に専攻していたのは経営学だったのですが、これはつまるところ人間を考える事に繋がる。だから面白かった。哲学に手を出す気にはなれなかった私が少しそんな気分に浸るには丁度良かったんですね。だけど結局私も人間を考えるのが好きなようで、結局作詞家なんていう仕事をしているし、これはきっと私に合っている事なのだと思うから、これからもっと楽しんでやって行きたいと思う。単純そうに見える事ほど難しく、難しい事ほど面白いのは世の常ですが、毎日がつまらないと思うとしたら、つまらないのはその毎日をつまらないと捉えている自分のほうであるのに、悩む事だけは忘れない。だけど悩み方がつまらないから、おもしろい答えに向かう事ができない。そうやってずっと足踏みしているような人をたまに見かけますが、もう少し素直に物事をわからないでみたらいいんじゃないかと思う。わかったら面白くないですから。

わかって面白いのは、嫌いだと思っていたものが好きだったと分かった時ぐらいかもしれませんが、その先にまたわからない面白さがあるからこそ好きだと思えるのだし、結局のところわからないまんまですね。あはは。ではすめらぎいやさか。