大袈裟な世界

フェイスブックばかり眺めているとウヨクになってしまいそうだ。

携帯電話でインターネット接続ができるということがまだ目新しかった頃、そういった機能が付いた携帯電話を販売するアルバイトをしていた私はインターネットとはなんぞやを説く講習まで受ける羽目になった。講師のお姉さんがホワイトボードにでかでかと書いた「インターネットの世界」と言う文字が今でも忘れられない。「世界」と言う表現がなんともいえず滑稽で、そのお姉さんが悪いわけではないだろうが、携帯でネットが使えるようになったところで、ろくな事にはならないだろうと予感した。ほうら、その通りじゃないか。

まず第一に文章の価値が下がったように思う。つまり情報のクオリティも下がった。そのくせビュンビュン飛んで動く。一旦広まった文章は文章としてではなくイメージとして人々の脳裏に張り付いて、そうなるともうインターネットの世界ができる事は何もない。このようなものは所詮道具でしか無いのだと言うことを皆が皆承知していれば何も問題は無いが、あのアルバイトをしていた頃からもう何年経ったか分からないが未だにインターネットの世界で何か新しく画期的で我々の世代ならではの独創的な事ができると信じている人がいる。私は断言できる。道具がいくら変わっても、使う人間が変わらなかったら何も変わらないし、むしろ状況は悪化する。

便利さは人をアホにしてしまう。ちょろっとググれば簡単に、三分で泣けるエピソード集に辿り着く。インスタントな感動にうるっとして、安い物語をみいんなで共有をしたり、たった百四十文字のご意見に賛同して拡散をして、人間として許せないだとか日本人のモラルは一体どうしただとか騒ぎ立てる。面白がって乗っかってしまう事だってたまにはありますが、そればっかり続けていては、いえ続けている人を眺めていても、すっかりうんざりしてしまいます。

日本人は目覚めなければならないと言う論調にも似たものがあって、これは勿論インターネットで多く言われている事ですから、ネットを眺めていれば当たり前に日々目にする。正しい歴史認識がなければならない、はいごもっともでございます。先人に敬意を払わねばならぬ、勿論当然でございます。しかしどうもあの、自分は目覚めた人間であって、目覚めていない人間はまるでダメな存在で言わば日本が良くならない原因そのものであるから一刻も早く浄化せにゃならんとでも言わんばかりのあの勢いにどうも、ぎょっとしてしまう。その勢いはどこから来るのだろうと思うとやはり、安易さなのではないかと感じる。こうでなければならん、と言う断定のパワーは単純さを用いらずして生み出せない。

そうやって急かしたところで、果たして人々は目覚めるのでしょうか。本気で目覚めさせようと思っているのかさえ疑問に感じる。目覚めている自分を誰も褒めてくれないから自ら言っているのではないかとさえ勘ぐってしまう。申し訳ない。

所詮私というひとりの人間が与えられる影響というものは、半径何メートルか分かりませんが、そう多いわけではない。ただ与える側にとっても与えられる側にとっても貴重なその機会に、一体何を伝えるだろうか。どのように伝えるだろうか。単なる情報をそのひとときで伝達するのではなく、その先の未来にも役立つ何かを伝えたいと思う。私がいなくても大丈夫なようにしたいと思うだろう。そして、それこそが目覚めを促すという事なのではないだろうか。目覚めることそのものは、本人の意思と経験を抜きに成し得るとは到底考え難いのだから。

そもそも、正しい歴史認識というものは、たんなる知識としてのことを言うのではないはずなのに、どうもそうではないような事を言っている人がたまに居るような気がする。歴史というものは、立場が違えば全く解釈も違って当然のものであって、どちらかが絶対的に正しいという事は中々言えたものではないし、全世界で絶対的に統一していないと困ると言うものでもなく、また統一させようとする事のほうが問題になるケースなら容易に想像がつく。要するに、それぞれのお国や環境の中で自国の歴史を尊重し、学ぶべきは学び省みるべきは省みて、その歩みを大切にする事が重要なのであって、だからこそ、他国の歴史を他国の者が勝手に改ざんしてはならないと言う話であり、知識が正しいと思えるかどうかではないのに、主張が違う事自体を批判するのは少し違うように思う。いくら気に入らなかろうが、彼等にとってそれが生きていくために必要な、つまりある意味で彼等的には正しい、歴史認識であるにも関わらずです。

自虐史観を改めたほうが明るく朗らかに楽しく暮らせますよ。それから、自国でどんな教育をしても構わないが海外に宣伝して周るような勝手を国際社会が許すとは正にディサポインテッドです。私が思うのはこれだけです。そして他人の、ましてや文化も民族性も違う外国の人々までの、生き方にまで口を出していては一体何百歳まで生きれば事を成し得るのか分かりません。気持ちが勇んでじっとしていられないのも分かりますが、まずはすぐ隣にいる大切な人ひとりを幸せにすることを考えて、また自分自身とはなんなのかを考えて、それでもちょっと足りないかも知れないぐらいが人間一人の一生なのではありませんかね。すめらぎいやさか。

 

追伸

彼らの言っている事は嘘だデタラメだと騒ぎ立てて情報を被せても効果が得られないなら、言い方を変えなくてはいけませんね。知には情を説得する力がないのですものね。歴史と文化のレイプ被害を受けましたとでも言ったら良いかも知れませんね。あまり好みの言葉ではありませんが…何か他に無いでしょうかね…