活かさなければ死であり、本当に生きたらば死ねる

書物を読んでも、すぐ実社会の問題に結びつかないような読み方は駄目でありまして、こういうのを死学問・死読と言う。(安岡正篤論語に学ぶ」PHP文庫より)

その通りと思っても中々そうはいかないものですがね。古来から偉い人というのはみんな読書家であって、とにかくまずは読書。しかもそれを自分のものにしていて、腹中書有り、なんですね。私も一般の趣味という意味では少しは好んで本を読むほうですが、やはり読んでいる時は自分に照らし合わせながら読む。そうするとぎくりとしたり、どきどきしたり、涙が出てきたりして心揺さぶられる。映画や音楽では、感情移入できるかどうかが重要とよく言われますが、感情移入はたまたまするものではなく誰しも無意識のうちにしようと試みるはずなんです。ところがあまり出来が上手でないものだとそれが難しかったりするものだから、本来はなんら特別なことではないのに感情移入しやすいお誂え向きの作品が称えられたりするんじゃないかと思います。あまり計算し尽くされていても冷めますけどね。

感情移入するところまでは、誰でもがやる。考えさせられました。目が覚めました。悲しくなりました、嬉しくなりました。そういった心の動きが多ければ多いほど、なんだか充実した日々を送っているような気分になれるものですが、本当の問題はその先にあるはずですよね。また実社会の政治や社会問題に対して 、憤りを感じるだとか、許しがたいだとか、はたまた素晴らしいと思ったり共感したり、何かしら感じるしいっちょ前に文句を言ったり語ったりする。しかし、だからと言ってその先の行動を起こす人というのはそんなにたくさんいるわけではないですよね。もっと酷い人は、行動を起こさないどころか散々感想を述べた挙句、つまりどうせこの社会もこれからの未来もろくでもないんだと結論を述べる。お話にならないというか、お話をしたくないタイプですね。

かと言って行動すればそれでいいのかというと、これがまた難しいですね。闇雲にやったって早とちりすることだってある。特に政治的局面では、とにかく正論を突き通しせば良いというものではないし、国内でももちろんましてや複数の諸外国が関わってくるとなると、正しさよりもバランスに重点を置いて、しかも長期的に考えて舵取りをしなくてはならない。正しい正しくないに関わらず、主張を押し通そうと張り切るのは活動家であって政治家ではないですよね。これだから政治は汚らしいものだと思うかも知れませんが、人間が汚らしく卑しく貪欲であることに今更驚くほうがどうかしています。

感じたら直ぐ行動するでもなく、どうやって死学問・死読にすることなく読書を生活に活かすことができるでしょうね。生活というと今月や今年、せいぜい十年後だとかもしくは老後とかそんな感じがしますけれど、人生という事で捉えたら良いのではないか、と言うよりも、そうとしか言えないのではないかと感じます。生活的概念で言えば、ハウツー本でたくさん勉強してすぐに役立つ技をあれこれ心得た心算りになっていても、目の前の金勘定やちょっとした物事のやりくり、人間関係を穏便に保つコツだとか、割とすぐに実感できる習得というものはありますが、中々人間の核心に触れない。自分とはなにかという事は一向に考える機会もない。故に生活の足しにはなっても、人生を豊かにするに至らない。

せせこましい人は嫌いなんですよ。幾ら損した幾ら得したと騒ぐのが楽しい人もいるのでしょうが、私はたとえ損をしても構わないからただ恙なく心豊かに暮らしたい派ですよ。第一結論を焦る必要はないんです。死ぬ間際になって自分の人生が良い人生だったと言えるかどうか、言えたならば素敵なことですし、そう言えるようにゆっくりとそこへ向かって歩いているわけですから、今はまだわからない事があっても構わないし、わからないからこそ先がある。まだ死ぬわけにいかない。しかしその行く先を知ろうと思ったら、ここまでどうやって来たかということを知らなくては中々困難ですから、少なくとも私にとっての読書の意味というのはそういうところにあるんです。すっかり大人になったのでしょうか、どうやらただ感動するだけでは物足りないみたいです。

久しぶりの更新で文字数が多くなってしまいました。読んで下さった方はご苦労様でした。パソコンを新しくして、すっかり快適な今日この頃です。また近々お邪魔します。すめらぎいやさか。