肩書きはモノを言わない

私の周りにはゴスペル好きが多いです。実際にクワイヤで歌っている人もいるし、ゴスペルを仕事にしている人もいる。私は幼少のころから父親のレコードばかり聴いて育って、ブルースにはじまりリズム&ブルース、モータウン、ファンク、P-Funk、ディスコソウル、ブラコン、クワイエットストーム、New Jack Swing、Hip Hop、R&Bとざっくばらんに聴いてきて、ゴスペルテイストはいつも必ずどこかしらにあって馴染みはあったのですが、ゴスペルというものの本当の凄味を理解したのは渡米して実際のその空気を味わうようになってからです。私が渡米したころ丁度、日本でもゴスペルが流行り出して巷のスクールやサークルでママさんでもOLさんでも誰でも、ストレス発散や習い事として定着していったのですが、もちろん帰国したての私にはゴスペルとは全く別の物に見えました。実はあの空気が少し恋しくなって、鎌倉の教会へゴスペルを歌いに行ったこともあったのですが、ちっとも続かなくて直ぐにその輪から抜けてしまいました。

ブラックミュージックの類を好み自らも演奏したり制作をしたりする人にとって、本場とそれを追う立場である自分とのギャップというものは永遠の課題です。体格が、育った環境が、歌唱力が、表現力が、リズム感が、グルーヴ感が違う、母国語の性質も違う…と、様々取り上げては解決しようと研究をするわけですが、私はこのところどうもそういう事ばかりでは無いような気がしてきたんです。アメリカの教会に集まる人たちが皆歌唱力抜群なわけではありません。むしろ音痴も平気でいますが、ゴスペル特有のあの一体感や昂揚感を経験しているかどうかは、歌を体現する一個人としての大きな武器であるように思います。では本場でただそこに参加をすれば会得できるのか、もしくは実際に参加しないまでも音や映像で良く知っていれば近いものを得られるのかと言えば、そうでもありません。

じゃあ一体何なんだと言えば、それはきっと信心であると思います。興行としてのゴスペルで成功している人々全員が紛れもない聖人であるとは言わないまでも、神様を信じるその一心に揺るぎがないことも確かです。長い生活習慣としての行為であるがゆえに、本質とならざるを得ない部分もあるでしょう。ゴスペルは音楽である以前に宗教ですから、その教えと信心が絶対不可欠なのは当然の話です。

ではこれを日本人が模倣しようとした時、クリスチャンではないと厳しいのかと言うと、それもまた違うような気がします。以前友人から聞いた話で、ゴスペルを歌っているならクリスチャンになるのが当たり前で、躊躇する意味が一体どこにあるのかと言うのですが、どうもその印象は信心よりも利便性に於ける選択肢といった具合でした。仕事とするなら人間関係が大切ですし、人前でゴスペルを歌うならクリスチャンである方が勿論説得力は増します。一理あると言えばあるかもしれませんが、私はおかしなところで真面目なので、それは本当に神様に向き合っていると言えるのだろうかと拘って考えてしまい、では自分にとっての神様とは一体なんであろうとまた考えてみると、私個人としては全く別の選択肢を見出すわけです。私がクリスチャンになれと勧められたわけではないのですけれど。

人間ってブランドとか肩書きに弱いですよね。さらりと一行でその人がどういった人であるか理解できるのは便利かも知れませんが、それは本当にさらりとで、本当のところは中々わからないのにまずはそのタイトルから誂えたがる。 さらに日本人というものはとても器用ですから、努力もするし工夫もして、上手にそれらしいものを創ることができる。しかし勝るとも劣らない唯一無二の域に達するにはどうしても、魂を込める必要がある。魂の強さには理屈を超える説得力があることに、気付かないわけではないのでしょうが、日本人にとっての神様はとても掴みにくく、自発的に良く考えようとしないと尚更あやふやな存在になってしまうから、音楽においては特に、その神様観の違いは非常に大きいのではないかと感じる今日この頃です。

しかし逆に神様を直接話題にしないポップスの場合、神様があやふやな存在でありながらも情緒というものが生活や人生のいたるところに顔を出す日本人のほうが、歌詞の表現力では長けているような気がするので、あやふやなことが良い方向へ作用する時もあるのかも知れませんが、それはそれとして、やはりもうひと踏ん張り日本の文明を開化させたいと思った時、くっきりとした神様像が必要になってくることは間違い無いと思います。すめらぎいやさか。

 

今日の参考書(記事との直接的関係性薄め):

日本の思想 (岩波新書)

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本当はすごい神道 (宝島社新書)

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