自由がいっぱい?いっぱい!

以下は少し長いですが、1977年に染谷茂氏の翻訳により出版されたソルジェニーツィン『自由への警告』から、1976年6月1日アメリカ自由基金「友好賞」受賞に際しての挨拶からの引用です。

 

コマーシャルのごみで郵便ポスト、人々の目、耳、脳味噌、テレビ放送を、放送はどれ一つ見ても辻褄が合った意味をなさないほど、無理矢理よごす自由!若い世代を唾棄すべき頽廃的作品で毒する出版社や映画プロデューサーの自由!(中略)世論をつくりあげるのに急で、どんな問題でもうわっつらを無責任にすべってゆく、ありきたりばったりの俗悪なペテンの自由!ジャーナリストが自己の利益のために生みの父親も、自分の祖国も顧みずデマを集める自由!自分一個の政治的目的のために自国の防衛上の機密をもらす自由!どんなに多く人を不幸にしようとも、あるいはまた自国を裏切ろうとも、どんな商取引でも行うビジネスマンの自由!選挙人を先見の明をもって悪と危険から守るのではなく、選挙人に目下人気のあることを軽率にも実施する政治家の自由!テロリストに対する憐みの情は自余の社会すべてに対する死刑宣告であるのに、テロリストが刑罰をのがれる自由!何か国もの国家がよそからの援助を被扶養者なみに強要し、自国の経済を建設する努力をしない自由!遠い他人の自由の蹂躙に対する冷淡無関心の自由!自分自身の自由も守ろうとせず、生命を賭するのは誰か他の者にしてくれという自由!

これらすべての自由は法律的には非の打ちどころがないことが多いのですが、道徳的にはすべて間違っています。この例でわかる通り、自由の全ての″権利”の総和は、まだ人間と社会の「自由」ではなく、″一つの可能性”にすぎないのです。この可能性はどうにでも変わり得るものです。これらはすべて低級なタイプの自由です。人間種族を高める自由ではありません。必ずや人間を亡ぼすヒステリックな自由です。(クォーテーション部分、原文では濁点)

この言葉通り「ヒステリックな自由」が横行し尽くしていますよね。あまりにも的確で付け加えることが何もないくらいですが、では高級なタイプの自由を探し求める人々が全く居ないのだろうかと言えばそんなはずはないと私は信じていますし、実感もしています。上記の引用の後に続く文章では、ほんとうの人間的な自由とは内面的自由であり、それには精神的責任が伴い、法律上の権利に関わらず物事の判断をする高貴な精神、つまり道義心を持っている者が真の自由を知る者であるといったようなお話が続きますが、ここのところの日本国憲法に関する新聞を中心とした論調を見ると、一字一句の変更はおろか、解釈を変えることすらまるで神への冒涜かのように言われていますが、人間の道義心と憲法、どちらが尊重すべきものであるか考えればあのように様々申し立てるほどの事ではありませんし、全く以て自由をはき違えた主張であると言えますね。

知る権利であるとか、表現の自由であるとか、そういったことを主張する人々は決まってだいたいの場合、その裏返しの部分で不完全ですよね。つまり求めるばかりで責任は果たさない。声が大きいだけで中身が何もない。しかしそれを叱るばかりでは解決し得ない。なぜなら、今までそれが社会的に嫌々ながらも容認をされまかり通って来たし、これからもしばらくそれで暮らして行けそうだと思わせる甘さが存在するからです。美味しんぼが次号から休載になると聞いて喜んだ人もいるようですが、私は逆に連載を続けさせたかった。報道によると休載自体は以前から決まっていたことのようで、つまりスケジュール通りにお休みをするだけのことですから、それに合わせてあのような過激な社会的に注目をされる話題をねじ込むことで、社会的信用を売る代わりに売上部数を買ったというだけのことで、単なるひとつの浅はかなビジネスモデルでしかありません。そこまで追い詰められているのでしょうか、そんな心配は無用かもしれませんが不憫ですね。

美味しんぼ騒動の後、改めて美味しんぼを全巻揃えたとという人を見かけました。問題の表現が掲載されている号だけスピリッツを買って来たという人はもっと多く見受けられました。確かめてやりたいということでそうしたのでしょうが、それこそが出版社側の狙いであって、当然そういった人々の怒りは最初から屁とも思っていませんから、今頃左団扇で飲み会でもしているかもしれません。

だから、と言ってしまうと少し非情かもしれませんが、「怒り」と言う感情はなるべく持たないに越したことはない。怒るとだいたい損をします。何も生活すべてを損得勘定で暮らすわけではないにせよ、怒りが何か有利に働くことはほとんどありません。ケンカはいつだって、先にキレた方が負けるのがお約束です。愛情の裏返しは憎悪ではありません、憎んだり怒ったりしているうちはまだ実は愛の範疇を抜け出しておらず、本当の対極にあるのは無関心です。失望とその先にもう何も期待をしない、生きようが死のうがどうでも良いという感覚が、愛から一番遠い距離にある感情ではないでしょうか。非人道的な行為を平気でする奴が許せないのは、相手の事を人間だとまだ信じているからであって、もはや人でもなんでもない、心というものを忘れた何か別の生物を相手にしているつもりで取り掛からないと、人情の弱みに付け込まれてまた負ける羽目になる、それでも精一杯頑張って涙も汗も流した自分を否定したくない。そんな姿で宜しいのでしょうか、私は嫌です。絶対に勝ちたいです。

勝ちたいというのは、自分が得をするためではありません。むしろ時間や諸費用を奪われ、損と見られることのほうが多いかも知れませんが、信じる価値観を守ることが目的であって、それ以上でも以下でもないことが重要です。以前、憲法9条ノーベル平和賞をという運動をされている主婦の方の話題を取り上げましたが、これには自分の信じる価値観を守る以上に普及をさせたい、または賞に値する素晴らしいものであると認められたいという欲があります。「ノーベル平和賞」という冠が無いとその価値に自信が持てないとしたらその時点でそこまでして守るべきものかどうか甚だ疑問ですがその点についてここでは扱わないとして、共通の価値観を持たない相手に対してそれを強要するのは非生産的である上に、果たして真に人道的と言えるかどうか疑問が残ります。人間が誰でも変わるものかどうか、それも良くわかりません。良くもなれば悪くもなる可能性を持っていて、それは他人がとやかく言ってもどうしようもない。人物の行動やそれによる現象が同じでも、世の中の大多数の人々から善い行いと感じられる時はカリスマでそうでなければ独裁者と呼ばれるのですから、価値観が定まらない限りなんでもありになってしまう、そこに最低限の規律を設けるのが法であり、国家であれば憲法ですよね。そしてそれでも尚、人間には内面的自由があって、自由がある限りその節度に悩み問いかけ成長をするという永遠のループがあるはずなのですが、どうやらソルジェニーツィンの文章を読む限り40年近く何も廻っていないようですね。そろそろ廻さないと限界なのではないでしょうか。すめらぎいやさか。

今日の参考書:

自由への警告 (1977年)

自由への警告 (1977年)