ぎゃあぎゃあ騒ぎなさんな

お久しぶりでございます。

自民党が移民大量受け入れ計画をやるぞ~!という煽りにまんまと踊らされている人々を横目に、まだまだメディアリテラシーが足りないねとため息をつく友人達は民主党政権化での3年間ちょっとでしっかり学んでモノの見方のコツを心得た人々だと思うのですが、コツ以前にそういった方々はしっかり関連省庁のHPで閲覧できる政策の資料や警察白書に目を通していたりで、コツというよりも真っ向からの正攻法で対処することを覚えたと言って良いかも知れません。メディアへの不信感も大きいでしょう。自分の目で確かめる事が一番で、どこそこ新聞の誰某記者の言う事よりも自分にとって信憑性のある結論を導き出すことができます。しかし手間は掛かります。

毎週月曜日夜7時半から鎌倉エフエムで放送している私の番組で数週間前、月刊正論にて小川榮太郎先生が論じられた「反原発文化人への手紙 上・下」を2週に渡って取り上げさせて頂いて、文化人の質に恵まれない時代の私達一般大衆というものはなんて不幸なんだろうと感じたりもしたのですが、何が不幸なのかと言うと、一般の個々が正当な結論を導く手助けをしてくれるような存在がほとんど居ないということです。しかも文化人と呼ばれる顔も名前も有名な方々は無責任なことも平気で堂々と言いますから、そういうものかな?と思わされてしまう人が大勢いる中で、ノーヒントよりも更に劣悪な状態からみんな結局自分で調べるしかなくなる。重ねて言いますが大変な手間です。

誰しもがそんな手間を掛けられるはずもなく、大多数の人々が言っている事や、音量が大きくて耳に残りやすい論調に流されてしまうのは致し方ないことのように感じます。だからこそメディアリテラシーが重要だという話なのですが、しかしそれは手間を掛ける意志を持てるかどうか次第であって、その根拠を持たない個人の情報や思考の質は一向に改善されません。だからこそ意味のある議論や問いかけのできる文化人が必要だという話なのですが、居ないわけです。

なんだか話がぐるぐるしていますが、何を信じればよいのかもう良くわからないよと嘆く人々の姿もあらゆる話題において散見される中、私はいつもなぜ無理矢理なにかを完全に信じる必要があるのだろうという感想を持ちます。誰にもわからない事がたくさんあって当たり前の世の中で、なぜそんなに答えを急ぐのか。政治家や科学者は神様ではないし私もあなたも勿論そうではない。完全な正解を求めること自体が人間的ではないと思いませんか。日本人は曖昧さが得意なはずだった気がするのですが、話題が放射能となれば結論がまず先に無いと不安で仕方がありませんか。

ちなみに日本の神様達はいっぱい失敗もおいたもして泣いたり喚いたりダダこねたり嫉妬したりするところが愛らしいと思うのですけれどそれはさておき、先日私の家に福島から友人が泊りに来たんです。思いのほかゆっくりする時間があって、色々話を聞きました。その友人とは古事記の話でも盛り上がって、それからやっぱり私からは美味しんぼが話題になっているかどうか、そして緊急避難の後単身帰郷して牧場で家畜の世話をしている人の話は有名かどうかなど、色々聞きましたがなんというかまあ、全般的に騒いでいるのはどうやら遠巻きから眺めている人々だけのようです。牧場の世話を一人でしている人は地元では少し有名な困ったちゃんのようで、家畜を放し飼いにしてサイクリングやドライブをする人々を驚かせているようで、とっても危ないです。友人のやれやれと言った表情から私は色々察したのでした。

その友人ですが、最近もっぱら経営学の勉強に熱心とのことで、私自身はコミュニティカレッジで経営学専攻だったり最近はどうしても政治や歴史の話に時間を割くことが多いですが、なんにせよ結局は人間を知る事が何よりなんだと改めて感じました。性善説を信じろというのではなく、もちろん邪悪な部分も含めた当然の人間とはどういうものかと言うのを良く知り良く考える事が、経営でも政治でもそういったあらゆるものの総括である歴史を見る上でも、絶対に欠かすことができないのは言うまでもありません。

歴史の本と言うと、大きく分けて2つのタイプに分かれます。文書や遺跡など資料の情報をもっぱら重要視する場合と、そういった情報プラス人間を見抜こうとする場合の二つですが、私にとって読んでいて楽しいのは断然後者です。歴史上の既にこの世を去った人物がどういう人間であったかを完全に証明する事はできませんが、例えばその人物が日本人であったならば、きっとこういう風に考えたんじゃないのかなと言うのが、割と現実味のある実感と共に考える事が可能なのではないでしょうか。外国人であれば、その国の文明や文化や成り立ちについて良く知ってさえいれば想像する事もできます。人間が人間を考えることの積み重ねが歴史というものであって、ただ単に記録を知って年号を暗記させられるようなのが歴史の勉強ではないですね。

 第二次安倍政権に完璧を求めることも、科学や物事に完全な答えを求めるのも、ちょっと風情に欠けると思いますよ。経営学が面白いのも、政治が安定しないのも、それをやっているのが良くわからないことだらけの人間だからであって、それを批判しまくるのも褒めちぎるのも下手したら一人の人間がやったりするのだから、いよいよわけが分からない。誰かに何かを言う時は、自分はそれを言えた人間なのかどうか今一度顧みる必要があるのではないでしょうか。

また人間には適材適所というものがあって、誰でもが何者にでもなれるというわけではない。夢を持つのは素敵な事ですが、自分の役割は一体何なのか、小さなことでも世の中に、いやたった一人の隣人でも構いませんが、何か役立つ事ができているのかどうかと言う問いかけを常に忘れてはならないと思います。動物と違って人間には文明があって、文明を豊かにするためには思考や哲学が必ずある。あるべき場所に、あるべきものがあるのかどうか、最近少し不安です。では、すめらぎいやさか。