窓の外ではお囃子の音

ああ言えばこう言う人々。上下左右におわします、僕って私って凄いでしょだけが目的の人とは会話をしても時間の無駄なのです。しかしそれが判っていながらも、完全スルーというレヴェルに達するのは中々難しい。それは謙虚さや慈悲でもなく、結局は自分のことが気になってしまうから他人が自分に何か言えば、それを他人の言葉としてではなく自分にくっついた装飾品の一部のような感じで気にしてしまう。相手が気になっていると言うよりも、自分なのではないかと思う。

レッテル貼りや極論で騒ぎ立てることの無意味さを普段から重々理解しているつもりでも、いざ何かしらの定評のある人物の書いた文章を読もうという時になると、その定評に従ってその線でしか読めなくなってしまっている事に意外と気づかない。下品でもある種の技が隠れている事を見落としてしまっては、悔しいじゃないか。たった5分でも費やすなら、技を盗んでやろうとしないとただ腹を立てて損をするばっかり。

そう。怒るという事自体が、損しているし負けている証拠だと思う。私は滅多な事では怒らない。私の友人のほとんどは私が怒ったところを見たことが無いので、中には私の事を女神様と呼んだ人もいた。今でもそう呼んでもらって構いませんが、腹を立てるというのは全く以て芸のないことです。そこで終わってしまう。怒りスポットにすっぽり嵌ってあとはその格好のまんまあっちこっちにゴロゴロ転がるぐらいしかできなくなってしまう。腹を立てなければ、よく考えてみたり意外な角度から見てみたり、試行錯誤ができる。腹を立ててしまうともうそんな余裕はなくなってしまう、つまりあらゆる可能性を放棄するのだから、大損してしまうんです。

いちいち損得で物を考えるのは良くありませんけどね。得をするより徳を積む姿勢で生きたいものですが、では徳とは一体なんでしょう。精神の姿を美しく保ちまた育むことだとしたら、やはり邪魔になるのは怒りです。同じようにネガティブな感情だとしてもそれがもし迷いや疑念であった場合、そこには続きがあるし選択肢を生む。ネガティブからオルタナティブへっ!変換する事ができますね。マック赤坂のマネですよ。

そろそろ時間が無くなってきたのでここらへんで止めないといけませんが、わかっているのにそうできないこと、むしろ逆のことばっかりしてしまうなんて時は、少しの間やめてしまえばいいと思います。ぐーぐー寝て美味しいご飯でも食べていれば、なんて小さいことで躓いていたんだろうと思ったりもします。時間がないからそんな事できないと思うかも知れませんが、一旦潔くやめて離れてしまった方が、その後ほんの短い時間でも集中して仕事に取り掛かれるなんて事もあります。ダメな時は、ダメなんです。ダメな時にむりしてダメじゃなくしようとするともっとダメです。自分にできる事以上の事はできないし、物事はなるようにしかならん。じたばたするなよと言う事ですね。すめらぎいやさか。