黙祷

前回、黙るにも中々の決断力が要るものだと書きました。世の中で皆が話題にするような事について、テレビのコメンテーターが素っ頓狂な事を言い過ぎると言うのも一因かも知れませんが、一般人も誰でもが批評家となり評論家となり、ああだこうだと好き勝手によく喋るな豚野郎と化して居るわけですが、そんな中では尚更、黙っているということがとても際立って見えるかも知れませんね。無駄口を叩かない、安易な発言はしない、じっと見守って心眼を磨く、そういう感じの人は貴重と言えましょう。

黙っていられないと言うのは自己主張が強いのかも知れませんが、自己主張、或いは自己そのものについて、大変な勘違いをしている人も多い。学校でも若いうちから自分らしさとかを見出す事を強要されて、将来の夢やはっきりとした個性のようなものを持たない事がまるで悪いことのように言われてしまうのはどうにも納得が行きません。子供のうちは当たり前の事を当たり前に理解して行えるだけで充分で、経験や思考を重ねていくうちに段々と朧げに何かが見えて来ればそれで良いと思います。勿論、誰に強要されることもなく自然と自我の強いタイプの人もいるでしょうからそれはそれで良いのですが、自分と言うものに気付くタイミングなんて本来は一生のうちどこだって構わないはずです。たいして気付かないまま一生を終える人だってざらに居るのですから、還暦を過ぎてからでも別に構うことはない。大切なのは、どれくらい本当に深く気付けてそれがその人にとってどれほど尊い価値であるかどうかです。あみだくじでもする様に自分の適性を無理に探ろうとしたところで、正解に辿り着くはずがない。もしも10代や20代で、はっきりとした生き甲斐や夢が無い事で不安になる人がいたら、まだまだ落胆するには早すぎると言う事を是非知ってもらいたいです。
 
何度か公言している事ですが自分探しの旅みたいなのも私は大嫌いで、ちょっと環境が変わったくらいで、異文化に触れたくらいで、自分がそう簡単に成長したり真理に辿り着いたりできると思ったら甘すぎる。その程度で見つかる自分なんてものはたかが知れていて、元の環境に戻って半年もしたらまた同じ悩みを抱いてまた貯金をして旅に出るのでしょう。せいぜい溜まったマイルで自分へのご褒美でも買うと良い。経済はそうやって回ってゆくのだし一向に構わない。誰もが賢くなって無駄遣いをしなくなったらそれもそれで困る。
 
話が少し逸れてしまいましたが、潔く黙ることができるかどうかは、自分をどれくらい分かっているか、或いは分かっていないと言う事を自覚できるかに掛かっている。分かりもしないのにべらべらと言葉にするのは論外ですが、自己に対する短縮的な個性の判断、つまり自分に対して何か問い詰めて得た答えではなく、例えば自分をちやほやしてくれる人々が喜びそうな事を言ってしまったりして、全く的を得ないようなことを、さも価値があるかのような顔で平気で言ってしまうのは残念としか言い様がない。有名人なので実名を挙げることはしませんが、最近いよいよその傾向が強くて見ていられない人も居ます。立派なキャリアを持っていて志も高いように思えたのですが、意志が強いのと思い込みが強いのとを見間違えてしまったようで、私もまだまだ人を見る目が足りないなと反省をしました。
 
本物の感動、悲しみ、怒り、戸惑い、驚き、恥じらい、歓び、そういった感情を覚えた時、人は黙ってしまうものです。後藤健二氏が殺害されてしまったと言うのに、静かに祈ることもせず騒ぎ立てる様はまことに空虚で、いかに彼らが何も感じない人々かを物語っています。そしてそんな様子を毎日目にしていれば、自分達も知らず知らずのうちに鈍感になってしまう。自分はまさかと思っていても習慣は恐ろしいものですし、例えば理解できないものを全部左翼や在日の仕業だと言って片付けるようでは、日本が抱える問題の根幹に目が行き届かないばかりか、自分自身がその一部となってしまうでしょう。はい、時間が来てしまいましたので今日はここまで。テーマの割りに最近更新(無駄口)が多い私をどうぞ笑って。すめらぎいやさか。