求めるは、より大胆な謙虚さか

大変ながらくご無沙汰しておりました。

実はここのところお蔭さまで本業の作詞がとても忙しく、情報解禁までまだしばし間がありますが、近々立て続けにお知らせする事となる予定です。他方、報道に乗る平和安全法制まわりの話題の質の悪さと、8月14日に発表された安倍談話の素晴らしさで、心は引いたり満ちたりの波乱であります。

平和安全法制に関する議論が深まらない最たる理由は、実際の内容を把握しないままに印象と空想だけで考えようとしたり発信したりしているからに他なりません。安倍談話についても、私はニコニコ生放送で会見を観ていましたが、TBSでは「植民地支配」「侵略」「お詫び」「反省」と文言を掲げた表に〇とか△を付けて、談話に盛り込まれたかどうかを視聴者に見せながらの中継をしていたようで、いかにも不真面目な態度だと感じます。

法案の趣旨にせよ談話の内容にせよ批判一辺倒の人々と言うのは、文章に向き合う事を忘れすぎです。これは今に始まった事ではなく、例えば8月15日が来れば多々取り上げられる場面のある昭和天皇による終戦の詔書にしても、「耐え難きを耐え忍び難きを忍び」というワンフレーズ以外に暗唱できる部分のある人がどれ程要るでしょうか。かく言う私もさすがに暗唱はできませんので、復習の意味を込めて昨年の8月15日にはこのブログで原文全文を掲載しましたが、“他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス”などと言った部分は現代に於いても、今一度よく噛みしめて世界へ発信し続けるべき重要な天皇陛下の、つまり日本国の、姿勢であるはずです。

しかし振り返る事をしないのであれば、新たな話題として取り上げていく他ない。そういう意味でも、今回の安倍談話には大変大きな意味があったと思います。歴史に謙虚でなければならない、謙虚な姿勢が重要だと、総理は繰り返し述べられました。記者との質疑応答も含めると7回も登場する「謙虚」という言葉は、今もっとも私達日本人に必要とされていることなのかも知れません。総理は談話発表の記者会見の中で、政治的、外交的意図によって歴史が歪められるような事は決してあってはならないと強調しましたが、この意図と言うものはつまり、謙虚さとは無縁の私利私欲による希望的解釈を押し通す事であり、歴史は政治家ではなく学者や研究者の手に委ねられるべきだと言う事でしょう。とは言え、学者が政治と密接に繋がっている状況ではなかなか難しいのかもしれませんから、そう言った柵を含めた上での戦後レジームというものから脱却をする覚悟が、総理大臣だけでなく今まさに現場に携わっている人間や未来の日本を作り上げて行く次世代の人々に必要とされているのだと痛感させられました。

そうです、謙虚である事には勇気も要るのです。自分に都合が良くて楽なほうに物事を解釈できるならば、ついそうしてしまうのが人間と言うものですが、謙虚を貫こうと思えばそれは許されません。たった一人勇気を持って謙虚を貫いたとしても、それが不都合であると感じる人々から非難されるかもしれませんし、少数派である事が理由で社会的信頼を得ることが困難になる事だってあるでしょう。そういったリスクを背負ってでも謙虚でいられるかどうか、つまり何かを成し遂げようと挑戦できるかどうかは、疑うのか信じるのか、そのどちらを取るのかに掛かっています。何事にもリスクは付き物で、それが全く存在しないならば成長や発展を産む事はないでしょう。かと言ってハイリスクに対してローリターンに終わる事だってあるはずですが、ではそのリターンはどの時点のどの地点から見てのリターンかというのもまた問題ですし、このリターンそのものさえも、疑いの視点から見るのか、信じる視点から見るのかで大きく違ってきます。文化や価値観の違う国際社会の中では数多くの疑いの視点がどうしても必要になって来ます。それでも、一点の最も大きな信じる視点がしっかりと軸になっていれば、必ず多くの疑いに右往左往させられる事のない、大きな成果へ繋がるのではないでしょうか。私は、そうあって欲しいと願うばかりです。

 

最近、仕事の関係で高杉晋作からの吉田松陰に改めてハマったりしたので、彼の名言なぞ紹介して終わりたいと思います。

 

成功するせぬは、もとより問うところではない。

それによって世から謗されようと褒められようと、

自分に関することではない。

自分は志を持つ。

志士の尊ぶところは何であろう。

心を高く清らかにそびえさせて、自ら成すことではないか。

 

ちょっと格好良すぎるかも知れませんが、憧れるくらい自由ではありませんか。私も心を高く清らかにそびえさせたいと思います。すめらぎいやさか。