私の食わず嫌い

旦那がとんねるずの食わず嫌い王を好んで頻繁に見ているのですが、私には嫌いな食べ物が無いので一生この番組には出られなくて残念だが何かひとつ大嫌いと言う事にして渾身の演技をして実際のところは大好きな四品をばくばく食べると言うのも悪くないなあなどと企んでいますが、番組に呼ばれる可能性は無いのですからただの空想です。

そんな私にも実は食わず嫌いがあった、と言うのが今回の主題です。それは食べ物ではなく、ハムレットです。ロースハム入りオムレットではなく、ハムレットです。シェイクスピアと言うとまず私には先入観があった。わたくしは芸術的な感性が豊かであるがゆえに大衆の俗物では心を満たすことのできない悲しくも美しい存在なのですと言いたいのは本人ばかりで傍から見ればどうも胡散臭いような連中が新宿三丁目のどん底あたりに入り浸って語らい合うもののように思っていたんですね。これはイメージであって、どなたか具体的にそういう人が居たと言う訳ではないのですが、とにかく私はそんな風に思い込んでいた。演劇界隈に左翼が多いのも影響していたかも知れない。自分の趣味に合わない人々が好んで愛でるものだから、興味を抱かなかったのです。

ところがこの度諸事情により読まなくてはならなくなった。仕事となれば私心を迷わず捨てられる私は、先入観を葬り去ってただ普通に読んでみたのです。するとどうでしょう、面白くて面白くて一気に読んでしまった。ちなみに私が読んだのは萬斎ハムレット用に書き下ろされた河合祥一郎訳のもので、言葉の運びと遊びがとても心地よく読みやすかったのも、はじめて読むハムレットとして適していたのかも知れない。これから福田恒存訳も読んでみようと思っていますが、取り寄せている間に小林秀雄の『おふえりあ遺文』も読みたいし、太宰治の『新ハムレット』は一番後回しになるだろうが余裕があれば読みたいところなので青空文庫でダウンロードしたばかりだ。青空文庫は凄い。まさかと思いつつ検索するとあるのだから凄い。怖い。そうなると読むしかない。がしかし、本文冒頭にある通りハムレットの登場人物と設定を拝借した創作であるわけだから、まずは既に手元にある福田恒存の『人間・その劇的なるもの』でも読んでおこうと思う。

さておき何がそんなに面白かったのかと言う話ですが、人間の内面のありとあらゆる部分を登場人物それぞれの台詞や行動が語ってしかも答えが出ない。これを読んでいる私は現実に存在する人間でありながらも内に秘めた心や心理の動く範囲については、自分を含めた誰にも明確に指し示すことはできず、それは私個人に限らず人間全体に言えることなのだから、どこまでも抽象的なはずなのに確かに存在すると言う点では現実的なんだという、当たり前すぎる事実に対して、まあ人間なんてそんなものだよ。人間だもの。と言って納得するのかというと、ハムレットはとてもじゃないけど納得しないわけです。私も納得できないような気がしてきた。しかしその納得できないということ、そうやって苦しんだり悩んだりすることさえも、人間として当たり前だという堂々巡り。人間!その劇的なるもの!と言いたくなるのも当然の物語なのですね。

某通販サイトの某著書に対してのレビューで私は、小説や文学を読むというのはつまり人間を考え抜く力であって、それがいかに重要だったかを気付かされて感動したといったような事を書いた。相手がハムレットとなると大物過ぎるので本腰を入れてやるわけにも行かないが、私はもう少しこの物語の中に居る人物それぞれについて良く考えてみたいと思った。私が学生の時に専攻していたのは経営学だったのですが、これはつまるところ人間を考える事に繋がる。だから面白かった。哲学に手を出す気にはなれなかった私が少しそんな気分に浸るには丁度良かったんですね。だけど結局私も人間を考えるのが好きなようで、結局作詞家なんていう仕事をしているし、これはきっと私に合っている事なのだと思うから、これからもっと楽しんでやって行きたいと思う。単純そうに見える事ほど難しく、難しい事ほど面白いのは世の常ですが、毎日がつまらないと思うとしたら、つまらないのはその毎日をつまらないと捉えている自分のほうであるのに、悩む事だけは忘れない。だけど悩み方がつまらないから、おもしろい答えに向かう事ができない。そうやってずっと足踏みしているような人をたまに見かけますが、もう少し素直に物事をわからないでみたらいいんじゃないかと思う。わかったら面白くないですから。

わかって面白いのは、嫌いだと思っていたものが好きだったと分かった時ぐらいかもしれませんが、その先にまたわからない面白さがあるからこそ好きだと思えるのだし、結局のところわからないまんまですね。あはは。ではすめらぎいやさか。