価値そのものの価値を考える

 遅ればせながらあけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。日本政策研究センターが発行する情報オピニオン誌『明日への選択』平成28年1月号に初めて寄稿をさせて頂きましたのでご報告申し上げます。年頭の話題としては大変光栄なことで、同誌は日本の政治政策や文化における様々な課題を知り考える上での大変重要な情報源として私自身以前より拝読させて頂いており、俗世的な部分の全く無い生真面目な媒体ですので、そのような場に私の名前が掲載されるとは大変有り難いことなのです。しかし初寄稿で欲張りすぎた感があったので、これから改善して行きたいと思います。

 今月の同紙でもそうですが、近年大きな話題として取り上げられているテロの問題は、大統領選を控えたアメリカでは選挙のトピックとしても派手に扱われていますね。正義感たっぷりにテロの脅威に屈せず戦おうと宣言するところまでは良しとしても、これがイスラム教徒への不当なバッシングへ繋がっている事も忘れてはなりませんし、「テロ」と呼ばれるものがいつだってイスラム教徒によるものでなければならないのか、ふと疑問に感じる時があります。昨年11月にコロラド州で起きた銃撃事件は過激派のキリスト教徒がその宗教的信条に則って行動したものでした。更に遡って6月にサウスカロライナ州で起きた黒人教会銃撃事件は、人種「差別」どころではない「侮辱」による「主義」が成したものです。

 テロの定義条件の中には「無差別」である事が含まれており、その点コロラド州サウスカロライナ州のような事例の場合、標的を信条や肌の色の違いで以て定めている点から、テロとは呼べないと言うのだろうか?とも考えられますが、テロを定義する上でもう一つ重要な要素として、政治または宗教的な意図があるかどうかというのがあり、こちらは十分満たしています。こうなるともう定義の重要性など如何ほどかと言う気になって来るもので、不特定多数の地域住民が脅威に感じたら、その時点で立派なテラーのテロリストと言えはしないでしょうか。ところが、アメリカ人は自国民をテロリストと呼ぶことはしないのです。

 人は恐怖心に煽られるほどある一点だけを見つめて信じる事で精神的自己防衛を図るものと思われます。今の一部のアメリカ国民は過激な宣伝戦に飲みこまれ、とにかくテロリストはいつもイスラム教徒なのだと思い込む事で安堵感を得ているようにさえ見えますが、善悪の物差しを宗教に置いてしまったら一番困るのは、アメリカのような多民族国家である事に何故気付けないのでしょうか。今日のイスラム教徒が、明日は我が身と思わないのでしょうか。私は昔10代の頃は、キリスト教と言うとひとつなんだと思っていました。言ってもせいぜい浄土真宗と日蓮宗みたいにいくつか宗派がある程度だろうと思っていたので、実際にアメリカへ行って電話帳を開いて見てびっくりしたわけです。キリスト教だけでもたーくさんの宗派がある上に、別の宗教もある。本場のゴスペルを聴いてみたくて電話帳を手にしましたが、諦めてのんびり散歩しながら探したものです。

 少し話が逸れましたが、異宗教をどう捉えるかと言うのは移民の問題にも関わって来ます。アメリカのような移民そのものがルーツである国とは違い、日本では否定的な意見が圧倒的に多く、確かに日本人の思う「常識」が通じない多数の人々が突然押しかけて来たらと考えると冗談じゃないと言いたくなる気持ちはわかりますが、問題は民族の違いではなく、現代の私達が満足するレベルのモラルを保持する術があるのかどうかと言う点であって、制度や条件でもしそれをクリアできるのであれば考える余地はあると思うのですが、移民政策=売国と言う図式に嵌められて議論が前に進む様子はあまり伺えません。ちなみに日本国内で移民に対して好意的な意見も散見されることはされるのですが、その論調たるや生易しく現実味の無い平等と平和への憧れに留まって、これでは移民が嫌われる手伝いをしていると言われても仕方がないほど中身がありません。テロリストとも話し合いで平和的解決をするべきだなどと言う一定層と同じ分類の人々が堂々と全国紙で述べていたりするわけですが、そういった上っ面だけの作文には飽き飽きしているのでもう勘弁して欲しいです。

 上っ面のレベルに違いはあれど、先進国の中でこの問題に無関係でいられる国は無いでしょう。昨年長谷川豊氏がアメリカ人の性根についてリアルな所感をブログに書いていらっしゃいましたが(私の戦争観 : 長谷川豊 公式ブログ 『本気論 本音論』)、地球上で白人が最も優れていると真顔で言い続ける人々は今までもこれからも居なくなる事は無いでしょう。他の人種にしろ教徒にしろ、何かを信じて疑わない人々を交えてどう世界秩序を保つのか、18世紀に戻って呪い合い殺し合うのか、国連は無用の長物と言い放ったアンドレ・マルローは何を見ていたのか、そろそろ本気で考えなければカオスの中でただ訳も分からず朽ち果てて行くのではないかと心配です。

 つまり民族と宗教と政治の問題に今まで通りの建前が通じない限界が来ていて、その限界を知りながら何もしないのか、思い切ってトライするのか、選ばなければならないと感じるのです。民族とか宗教と言うと自分が関わっていると思えない人も居るかもしれませんが、エネルギー問題でも大気汚染でも、将又同性婚夫婦別姓でも、突き詰めれば全ての根底に民族と宗教と政治があるのですから、何に於いても近代社会の価値そのものの価値が試されているのであって、その答えを捻り出すための思考が必要とされているにも拘わらず、世界各国どこでだって人は皆自分の暮らしに忙しく、投票日が迫れば雑多な情報の洗い直しに勤しんで、100年の計など何処吹く風で、また明日も満員電車に揺られるのです。明日は日曜日ですが。

 幸い私は人よりも余計な事を考える余裕が少しあるように思います。今すぐに何がどうなると言う話でないにせよ、考えたい事や考えなくてはいけないなと思うことを良く考えられる人生を送ってみたいと言う抱負を新年のご挨拶に代えさせて頂き、本日はこの辺で失礼致します。すめらぎいやさか。

 【お知らせ】
アンドレ・マルローの名前が出て来たのはこういうわけです。
ルーツについて、想いを巡らせてみませんか。
是非ゆっくりとご覧ください。

チャンネル桜
小川榮太郎『美の世界・国のかたち』
ゲストは竹本忠雄先生です。
私はちょこんと横に居るだけのアシスタントですが…


【美の世界・国のかたち】竹本忠雄、日本とフランス「ルーツとルーツ」の対話[桜H28/1/8]