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価値を見る目

現在東京ステーションギャラリーで開催されている『川端康成コレクション――伝統とモダニズム』へ、先日二度目の訪問をした。時間が許せばもう一度行ってみたいくらい、私はこの展覧会がとても気に入った。見どころは何と言っても玉堂の国宝『凍雲飾雪図』なのだろうが、私の一番のお気に入りは東山魁夷の『静宵』だ。"知識も理屈もなく、私はただ見てゐる。"というキャッチコピーが物語る通り、物を見る、ということの奥深さと面白さに溢れている。それは川端康成の面白さそのものでもある。

見ること自体は、視力に問題が無ければ誰でもできる。いや、視力に問題があったとしても、春草の感性を以てすれば普通の人間よりずっと見ることができる。目に入ったものをどう捉えるか、理解するか、この事が重要なのであって、そこには本来"知識も理屈も"あってはならないのかも知れない。実際には見えるはずのない色を入れる事で、実物よりも現実的な印象を与えるような画も世の中には多々存在する。それは視覚が見たのではなく、感情や精神が見た色に違いない。

目に入るものを単純に考えると、それは空間や物質についての情報だが、画にしろ写真にしろ、まずは情報価値としてだけで考える事もできる。パリのエッフェル塔を写した画と、名も無いおじさんの家の玄関を収めた画なら、普通は前者を買って飾りたいと思うものだ。しかしおじさんの家の玄関を横山大観が描いていますとなれば話は別で、誰しもがこぞって、おじさんの家の玄関のほうを欲しがる。あのエッフェル塔を差し置いてである。つまり私たちには、情報を頼りに物の価値を決める習性がある。

川端康成の凄いところは、それをやらない点にある。いいなと思ったものが、後から国宝に指定されるのだ。「いいな」のスケールがでかすぎる。Facebookでぽちぽちと惜しみなく人にあげてしまう「いいね」のような、薄っぺらい日常に生きている私たちには到底真似のできない芸当だ。

若冲展に何時間分もの長蛇の列を作っている人々を見て、世の中のどこにこんなに美術に興味のある人が隠れていたんだろうと不思議に思ったが、聞けばNHKで連日特集をしていたそうだ。なるほど、大メディアのステマならぬ「マ」にやられたか、と思ったが、若冲に価値があることには変わりが無いのでよしとしよう。それでも、観る側の価値は如何ほどのものかと、ついつい訝しんでしまう。美術への造詣も予備知識も全く無い私の旦那さんは、若冲の描いた孔雀の羽の部分にハートマークを見つけて、300年も前に日本でハートを描いている人がいたなんて凄いと言って、逆に度肝を抜かれた。え?と聞き返すと、いや50歳の時に描いたとしても250年前だからやっぱり凄いのだと言って、持論を曲げない。それはハートではなく、孔雀の羽の模様だよと言うと、たいそう驚いた顔をしていたが、驚いたのは私だ。上手に言えないが、私はこういう人にこそ若冲に触れて欲しいと、何故か強く思う。

見ることだけでなく、聴くことでも、その価値を情報で左右される場面は多々ある。日本の音楽市場は非常に独特で、圧倒的に無いに等しい英語力が影響してか、世界的に価値があるとされているアーティストでも、日本での知名度はほとんど無い。それは価値が理解されるか否か以前の問題として、レコード会社、テレビをはじめとしたメディア各局、広告代理店、あるいはプロダクション、そういった関係図の隙間に「価値」に関する「情報」を滑り込ませる事が難しいという問題がある。若冲でさえもそうであったように、何も知らない人に価値を知ってもらうためには、それ相応の情報量がまずは必要だが、その為にテレビ番組の何分間かを割くのか、売れば直ぐに利益になるアイドルのプロモーションに使うのか、答えは簡単だ(補足:音楽の会社とテレビ局が系列である事は珍しくない)。

これはつまり情報を握るものが価値を決める世の中ということだ。そんなつまらない世の中にならないように、審美眼を養ってみたいと願う。しかし情報があっても尚、その価値が理解されないことさえあるようだ。たまたまネットで話題になっていて目にしたのだが、音楽配信サービスのお試し期間を過ぎた後、楽曲がフルで聴けなくなったことについて、苦情が出ていると言うのだ。一体何を言っているのだと思うだろうが、つまりお試し期間が終了すると、楽曲は30秒間の視聴ができる。視聴して気に入ったら購入する。その至って当たり前の行動について、不親切だというクレームが発生しているらしい。全部無料で聴きたいのだそうだ。物事の価値以前に、社会の仕組みを知らない子供の意見だろうと言われていたが、私は幼稚園生の時だって、お菓子やジュースが欲しい時はお金を払わなくちゃいけないのだと知っていた。こういう感覚の人には、価値のあるものを与える価値がそもそも無いので、一生無料で得られる範囲のものを楽しみながら生きたらいいと思う。

 "知らぬが仏"とか"無知は罪"とか、知っているのと知らないのとどちらが良いのか戸惑うような、知識や情報に関する諺も多々存在するが、一番知るべきは「価値」なのだろうと思う。希少な一流に触れることで養われるものもあるし、質より量で補われるものもあるだろう、どちらも必要かもしれない。そこに方法論や正攻法を見つけるのは難しい。有名校を卒業していても、親や親戚が超一流でも、価値に関するセンスが必ず身に着くとは言えない。その逆もあって、どんなにすさんだ青年期を過ごしていようが、至極の芸術を生み出す人もいる。また、これは芸術や文藝の分野だけに現れるものとは限らない。大きく言い切ってしまえば、生き方そのものかも知れない。例えば人間関係のふとした場面で、接している相手の価値を理解できずに失礼な事を言ってしまう事がある。お料理がちょっと趣味の私が、一流シェフに向かって、私のお気に入りの美味しいお店に連れて行きますよ~なんて言えば噴飯ものだ。そういう事を平気で言ってしまう人は案外そこら中に居る。私に「プロの作詞家になろう!」なんて題名のイベントへのお誘いメールをしてくる人がいるのは、一斉送信だろうからしょうがないにしても、私にまだまだ実績が足りないから仕方が無いにしても、心の扉をそっと閉じて、もう開く事は無いだろう。見た目がみすぼらしいからと蔑んでみたら、大企業の会長でしたなんて笑い話もどこかにあった気がする。しかし役職や地位に関わらず、真っ直ぐに価値だけで共感しあえる人同士であれば、スーさんとハマちゃんにだってなれる。

今まで何も深く考えずに生きてきた分、この先私は少しでも価値の判る人間になりたいと願う。人生の宵の口と言うにはまだ早いかも知れないが、静かにそんなことを想う。東山魁夷はたびたび「生きているのではなく、生かされている」という言葉を用いたそうだが、自然に対する目の向け方などは、自分も歳を重ねるごとに変わっている実感が多少ある。それは勿論、知識が増えたせいもあると思うが、最初は「情報」として入って来た考え方や知識に、自分の暮らしが重なり合ってゆくことで、徐々に自らの「価値を見る目」に変わって行くのではないだろうか。また自ら取り入れるばかりでなく、意図しない人との縁が導き出す視野や、人生体験の、全てがその構築に繋がっているはずだ。それは楽しい時ばかりではないかも知れない。それでも、それを「価値」に変えられるか否かは、自分次第なのだろうと思う。楽をしたいと願ったことはない。心豊かに強くありたい、私はいつもそう願っている。

 
【参考画像】東山魁夷『静宵』
写メに収めるようなものではありませんね、申し訳ない。ですが雰囲気だけでも。

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すめらぎいやさか。