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脱相対的平和主義――はじめの走り書き

それらしいタイトルを付けましたが、何か長期的な計画があるわけではありません。また、私には正直難しいことはわかりません。故に、多種多様な引用をして知識をひけらかしたり、理屈をこねくり回したりして、崇高なご高説を披露しようという気はさらさらありません。ただ純粋に人間として、或は日本人として、平和ということについてどう考えることが可能か、真面目に試みるべきだと考えています。非力な私だけでなく、願わくばあなたにもそうして欲しいと思っています。ちなみに真面目にという所が重要で、私の様なごく平凡な一個人ですらその必要性を感じてしまうほど、世間はこの問題について実に不真面目だと言わざるを得ません。

俗世間と言ったほうが似合っているかも知れませんが、この風潮は何も近年に限った事ではありません。戦後日本では平和論ブームというのがあったそうで、カントの『永久平和のために』を読み直すのが流行ったそうですが、そのブームに疑いの目を向けた福田恒存も、日清、日露を経てその見解を変化させながらも、徹底した非戦論を唱えた内村鑑三も、論壇から追いやられる中で無記名の『絶対平和論』を出版し、その思想を貫いた保田与重郎も、真面目に平和を考えた人々のことを皆、日本の社会は拒絶、無視、排除してきました。西洋の古典なら嬉々として奉る一方、同胞の苦悩には耳を傾けない態度は、不真面目かつ腰抜けで、民族として衰退するのも頷ける情けなさです。日本人はどこまで空気に弱いのでしょうか。また、勇気がない。ブームや風潮と化した後の「祭り」への乗っかりぶりとは裏腹に、平均的には独りでは何も言えない人々が大半を占めているように思われます。

そういう国民性ですから、安全の保障された、毒にも薬にもならないような話しかしません。平和に対する態度はその骨頂で、戦力を保持しないことが戦争をしない事であり平和なのだと唱え続けて飽き足りません。ブームの時に読んだであろう、本の冒頭すら忘れてしまったようです。カントが著わした『永久平和のために』(宇都宮芳明訳、岩波文庫)の第一章の第一条項で、"平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。"つまり、"それは実はたんなる休戦であり、敵対行為の延長であって、平和(原文に濁点)ではないからである。"とあります。要するに、戦争を実行していない、或は実行不可能である状態が、平和であると考える事は、18世紀に既に否定されています。

平和ってなんだ、これだ!という答えはありません。ただ、思想家でも批評家でもない、ただの活動家が述べることをそれらしく扱う習慣を、まずはどうにかするべきです。かと言って大学教授だとか学者だとか弁護士だとか、肩書きがあればそれで良いということでもありませんが、兎に角どうでもいい話に付き合っている場合ではないのです。進歩的と揶揄(ではなかったですか?)された人々の世代から離れて、もっと若い世代の中には、本物の議論がしたいし読みたいと思っている人も少なからずいると信じています。ですから、そういった方々の邪魔をしないで欲しいのです。少しは福田や保田を無下にした反省をするべきです。

愚痴はこれぐらいにして、では平和について考えて行きたいと思います。今日はまずタイトルについての説明にもなりますが、相対的平和主義とは何かお話したいと思います。戦争状態よりは、戦っていない状態がましだから平和だという考えは、「戦争」と「平和」の相対関係から成る捉え方であることは言うまでもありませんが、何かと何かを比べてより平和そうに思える方を選択するというのは、大変消極的かつ自虐的な平和主義とも言えます。争うぐらいだったら謝ろうとか、怒られるぐらいだったら嘘をつこうとか、そういった精神の延長線上にあり、平和を訴えているようでありながら実は、一寸も平和に対して真剣に考えていない態度です。自ら平和を創り出そうという気概は無く、カントに否定された平和条約や、その時々の周辺諸国の顔色や、国内世論やその延長線上にある選挙民の票田を気にしながら、当たり障りのない平和ならぬ、限りなく実現可能な「平時」を選択する態度であり、本当に平和を思考しているとは言えない考え方です。しかし現在日本で平和主義者のような顔をしている人々のほとんどがこの部類です。

周辺諸国の顔色を気にすると言うのは、協調や協力と言う意味では必要かもしれませんが、周辺に流されるだけでは心細いものです。それぞれの国家はそれぞれの国家意思を持っていて、その理想や方向性が違えば摩擦が起こるのは当然です。ではそのそれぞれの国家意思は、他者から抑圧されるべきものなのでしょうか。当然、現代社会の常識として侵略や虐殺は許されませんが、国民の安全な暮らしを守りたいとか、経済成長したいとか、科学技術の発展に寄与したいとか、そう言った意思はあっていいはずです。ちなみに、侵略を試みる国家に対して、話し合いをすれば解決できるとの主張が良くありますが、本当でしょうか。良し悪しはさておき、領土領海の拡大をしたいと言う意思を持った国家に対して、どう話し合えば諦めてくれるでしょうか。あなたがどうしもラーメンが食べたい!と思っている時に、頼むから釜飯にしてよと説得されて納得するでしょうか。馬鹿な例えだと思うかもしれませんが、話し合いで解決すると思うこと自体が馬鹿なのです。個人の意思は尊重されるべきだと良く聞きます。犯罪者の人権も守られるべきだと言う人もいます。しかしそれを国家に置き換えた時、これが如何に現実味のない綺麗事でしかないのかが良く分かるはずです。国家と個人を並べて論じるべきではないと言う批判もあるでしょうが、では国家間で共有するべき倫理や価値観は誰がどのように思考するべきでしょうか、個人ではないのでしょうか。

そして、戦争は国家の意思がはじめるものだとしても、相手国があって初めて成立します。複数の国家間の意思がぶつかり合うのです。その意思は、クラウゼヴィッツの論に習えば目的や目標を達成したい意思、名誉の回復や正義を貫きたい意思、或いは意思というより本能とも言えるやうな力の暴走を含んでいる中で、その解決に人道的な方向性を示すこと自体が現実的でないとも言われています。走り出したら止まらない。振り上げた拳を下ろすのに、良い話や説教をしても無駄なのです。そもそも、意思とは欲望であり、夢であり、人間にとって否定しがたいものです。出る釘は打たれ、金メダルを取ればルール変更されてしまう国際社会の中で、それでも夢を追いかけるためには、困難を打破し努力し続ける事が必要ですが、その意思の価値を決めるのは本人でしかありません。ルールを作る側に立ちたいと思えば覇権を目指すこととなりますが、軍事力や経済力は常に水面下での戦いがあります。一般市民には平時でも、国家運営者が休戦する事などないと言っても過言ではありません。とは言え、共存する仲間として助言をしたり促したりしながら、なるべくより多くの者が納得する社会を作り上げると言う、非常に地味で細やかな歩みが必要だと言うのが、ごく簡単に言うところの現実でしょう。

ここから先は、また別の機会とし今日はこの辺にして、また心赴くままに語ってみたいと思います。すめらみこといやさか。