ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞について思うこと

 ミュージシャンで作詞家のボブ・ディランが2016年のノーベル文学賞を受賞しました。まさかの人選に驚いたのは云うまでもありませんが、歌詞がノーベル文学賞の対象として相応しいかどうかという議論が当然出てきます。私の結論を先に述べると、否です。

 歌詞というものは作曲、編曲、歌い手の全てと対になってはじめて意味を成すもので、歌詞単体ではあまり意味が無いという理由から、文学賞の対象とするべきではないと思うからです。

 ボブ・ディランの歌詞が詩的であるとして評価されていたのは大昔からの事でしたが、私はその昔から、一切同感できませんでした。アーティストとしての彼を否定する気は毛頭ありません。しかし歌詞に詩としての芸術性があるかどうかを考えると、やはり楽曲とあの声色やファッションと共に提供されるからこそ意味をなしているのであって、歌詞単体を評価すること自体がそもそも不可能とすら感じます。

 しかし基本的に英語圏の流行歌というものは、歌詞の内容が基本的に浅く、メッセージ性があると言っても非常に平面的なものが殆どです。取るに足らない、感受性や思考を働かせる辛さを伴わない話題でこそ、安心して大衆は共感し合っているかのように見えます。その主流があったからこそ、ちょっと観念的な事や人生観的なことを歌詞にしたディランが際立って見えたのではないでしょうか。

 その点、日本のJ-Popリスナーは、他の言語地域の音楽ファンに比べて、歌詞の良し悪しに重点を置く傾向は確かにありますが、それでもはやり、楽曲と歌手の存在が手伝って感動させていると考えるのが妥当でしょう。

 ある特定の楽曲が好きな理由として「歌詞が良いから」だと言ったにしても、そこには少し勘違いがあって、実はその歌詞を良い歌詞たらしめているのは、楽曲と歌手の存在が大きく、むしろ楽曲と歌手が違えば同じ歌詞でも好きにならなかった可能性も十分高いでしょう。しかしリスナーの側はそういう事をあまり気付かないし、気にする必要もありません。大いに入り込んで感動して頂きたいと、作詞家としては強く願うばかりです。

 ところで私は所詮英語と日本語しかわからないので、インドやロシアやドイツやサウジアラビアでどういう曲が流行っているのか知りませんが、日本人の歌詞への工夫や凝り方は非常にハイレベルだと感じています。それは歌詞を大切にするリスナーに育てられた部分もあると思いますが、それ以前に、日本語の汎用性の高さも大きな要因であると考えられます。

 ところが日本語の歌詞の凄さを他の言語圏の人はまず理解する事ができません。翻訳したとしても、メロディーとの合致のさせかたのセンスと言ったところまでは伝わりませんし、歌詞の中に登場する英文は、日本人独特の感覚と共に理解される必要があり、言わば、和文化英語、或いは和製英語と言う、本来の英語とは全く別の概念を要するものとも言えます。

 単純に語彙数と表現の幅を考えても、小なるものから大なるものに置き換える事は可能でも、その逆をするためには、映像や音楽といった補足が必要になるでしょう。そう思うと、日本の文學や音楽表現を、地球儀を俯瞰する規模のマーケットに乗せることが難しいのは、どうしようもない宿命と言えるのではないでしょうか。同時に、日本のアニメーションが成功している事に少し納得がいく気もします。

 話はノーベル賞に戻りますが、科学や医療といったはっきりと万人の理解に足る結果を伴うものではなく、文學や平和、或いはリアルタイムで明確な評価を定めづらい経済学といった分野で、賞を与える事自体に一体なんの意味があるのでしょうか。

 その疑問に明確な答えを出したと言えるのが、今回の文学賞だったのではないでしょうか。少なくとも文化の分野に於いては、ノーベル賞の権威は地に落ちたと言って良いと感じました。何十年も前ならまだしも、この現代に於いて、取れないからと言って残念がるような賞ではありません。