今日が今年の折り返し

この数ヶ月の間に、立て続けに様々なできごとがあって、さすがの私も少し疲れた。しかし物理的にやっつける業務というものは、不思議となんとかなるもので、幾つかの奇跡の訪れもあり、今では本当にどうにかなった現状に多少驚く。ただ、驚きはしても、私は「無理だ」と感じた時は一度も無かった。かと言って「なんとかなる」とも到底思えなかった。だいたいにおいて、「なんとかしてやる」と挑んでいたような気がする。私がなんとかしなければ、なんともならないのであれば、やるしかない。そういう私の気持ちを感じ取ったのか、夫が非常に気遣ってくれ、力になってくれたのは有難かった。

まだ完全に嵐が過ぎ去ったというわけではないが、今回ほど「人間」という生き物について新たな発見があった日々も珍しかった。同じようなことはもう暫くのあいだ遠慮したいと思うが、どうしても次の歩を進めるためには必要不可欠な経験だったのかも知れない。人生に無駄なことなどひとつも無いという文句は、歌詞にも物語にも多く登場するが、こういった濃度の凝縮された日々というのは、「無駄ではない」どころか「必要に駆られて」経験させられていると考えたほうが自然だろう。

それにしても人間の思惑というのは掴み難い。どうしてそんな風に考え、発想するのかを予測するには、それと同種の考えと発想を持っていなければできない。わかりやすく言えば、私があなたの事を嘘つきだと決める時、私には嘘つきであった過去や現在があるわけだ。生まれてこのかた嘘をついたことの無い人ならば、他人のことを嘘つきだと考える術を持ち合わせない。この例えは極論と言えど、あらゆる選択肢を取り揃え、可能性を試しながら、何を選び取るのかは結局、自分自身を選び取ることを意味するに違いない。

そう思うと、ちょっとぐらい大変な想いをしてもはやり、幸運に恵まれているような気がする。いいや、恵まれた幸運をきちんと選び取っているのだ。大多数の人間がこれを不幸や災いと呼んだとしても、「恵まれる」人間というのは圧倒的な少数派に属する可能性が高いとしたら、どこにでもいる小狡い、世渡り上手になるよりも、もっと他の何かに恵まれる人間のほうが私は面白いと思う。親や家族は堪ったものではないかも知れないが……。

それと今回、もう一つ学んだことがあった。それは、無用なおしゃべりは禁物ということ。しかし、どこからが無用でどこからが必要なコミュニケーションなのかを見極めるのもまた難しい。判断に困るので、今日はこの辺で終わっておこうと思う。